秦の統一について
秦の統一について考えてみます
・秦の統一について
・「戦国の七雄」の一つだった秦は、紀元前4世紀に商鞅の改革というので、国力をつけた
→そのため、秦は東方の6国をどんどん征服していって、紀元前221年に中国を統一した
※秦の王の政治は、「王」に代わって、「光かがやく神」の意味を持つ「皇帝」という
称号を採用した
=この時に始まった皇帝を、始皇帝という
→始皇帝は、以下のようなことを行っていた
・自分の国内で行っていた郡県制という制度を、全国でも行った
・直接中央から派遣した官吏におさめさせていた
・貨幣、度量衡、文字などの統一を行った
・焚書、坑儒などによって、思想の統制をさせていた
※焚書・・医薬、占い、農業関係以外の書物を全て焼くこと
坑儒・・数百人の儒者を穴に埋めて殺すこと
=始皇帝は、以上のようなことを行うことで、皇帝権力の絶対化と中央集権化を進めた
※始皇帝の陵の墓域に埋められた「兵馬俑」というのは、
始皇帝の権力の大きさを物語っていると言われている
・秦は、北方と南方で以下のようなことを行った
→・北方・・戦国時代からあった長城を修築して、匈奴と言われる人たちの侵入に対抗した
・南方・・華南を征服して、南海(現在の広州)など3郡をおいた
→上のような、急激な統一政策、対外戦争、土木工事の負担は人々を苦しめた
※特に、秦に征服された東方6国の地域では、秦への反感が強まっていった
・始皇帝が死んだ後、各地で反乱が起きるようになっていった
=反乱の結果、秦は統一して15年で滅んでしまった
※最初に起きた反乱は、陳勝、呉広と呼ばれる農民の反乱だった
※陳勝は、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉を残した
→この言葉は、戦国時代以降の個人の実力を第一とする社会の様子が
よく表れていると言われている
・各地の反乱する勢力の中で、劉邦と項羽が力をのばしてきた
→その後、4年間の激闘によって、劉邦が中国を統一して皇帝の位について、
高祖と呼ばれるようになった
=そして、高祖は漢王朝を作った(前漢と呼ばれる)
※劉邦・・郷里の町の民衆を連れて蜂起した庶民出身の人
項羽・・楚の名門の出だった人
ポイント
・秦の統一から滅ぶまでの流れをおさえる
このあたりが今回のポイントです