秦の統一について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/10 08:56      
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秦の統一について考えてみます

 

 

・秦の統一について

 

 

 ・「戦国の七雄」の一つだった秦は、紀元前4世紀に商鞅の改革というので、国力をつけた

  →そのため、秦は東方の6国をどんどん征服していって、紀元前221年に中国を統一した

   ※秦の王の政治は、「王」に代わって、「光かがやく神」の意味を持つ「皇帝」という

    称号を採用した

    =この時に始まった皇帝を、始皇帝という

 

  →始皇帝は、以下のようなことを行っていた

   ・自分の国内で行っていた郡県制という制度を、全国でも行った

   ・直接中央から派遣した官吏におさめさせていた

   ・貨幣、度量衡、文字などの統一を行った

   ・焚書、坑儒などによって、思想の統制をさせていた

    ※焚書・・医薬、占い、農業関係以外の書物を全て焼くこと

     坑儒・・数百人の儒者を穴に埋めて殺すこと

    

    =始皇帝は、以上のようなことを行うことで、皇帝権力の絶対化と中央集権化を進めた

     ※始皇帝の陵の墓域に埋められた「兵馬俑」というのは、

      始皇帝の権力の大きさを物語っていると言われている

 

 ・秦は、北方と南方で以下のようなことを行った

  →・北方・・戦国時代からあった長城を修築して、匈奴と言われる人たちの侵入に対抗した 

   ・南方・・華南を征服して、南海(現在の広州)など3郡をおいた

 

 

  →上のような、急激な統一政策、対外戦争、土木工事の負担は人々を苦しめた

   ※特に、秦に征服された東方6国の地域では、秦への反感が強まっていった

 

 

 

 ・始皇帝が死んだ後、各地で反乱が起きるようになっていった

  =反乱の結果、秦は統一して15年で滅んでしまった

 

  ※最初に起きた反乱は、陳勝、呉広と呼ばれる農民の反乱だった

  ※陳勝は、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉を残した

   →この言葉は、戦国時代以降の個人の実力を第一とする社会の様子が

    よく表れていると言われている

    

 

 

 ・各地の反乱する勢力の中で、劉邦と項羽が力をのばしてきた

  →その後、4年間の激闘によって、劉邦が中国を統一して皇帝の位について、

   高祖と呼ばれるようになった

   =そして、高祖は漢王朝を作った(前漢と呼ばれる)

    ※劉邦・・郷里の町の民衆を連れて蜂起した庶民出身の人

     項羽・・楚の名門の出だった人

 

 

ポイント

・秦の統一から滅ぶまでの流れをおさえる

 

このあたりが今回のポイントです

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