漢代の政治について
漢代の政治について考えてみます
・漢代の政治について
・高祖は、秦の都である咸陽というところの近くに、新しい都である長安というところを作った
※この時に、長安は秦の制度の多くを受け継いだ
→そこで、秦の急激な統一政策の失敗があったことを反省として、郡国制を採用した
※郡国制・・郡県制と封建制を組み合わせた制度のこと
→しかし、その後朝廷は諸侯の権力を削ることを行った
※その時に、それに対抗する人たちが出てきて、争いが起きた
=紀元前154年におきたこの争いを、呉楚七国の乱という
→朝廷側は、呉楚七国の乱を鎮圧した後、実質的に郡県制と変わらない
中央集権体制が成立してしまった
・紀元前2世紀後半に、武帝という人が社会を治めた
※この時の時代は、大規模な外国との戦争の時代だった
→武帝は、北方で漢と戦っていた匈奴を倒し、領土を広げて、土地を開拓していった
→また、大月氏と呼ばれる人たちと同盟を組んで匈奴を倒すために、
張騫という人を西域に派遣した
=この出来事をきっかけに、タリム盆地というところのオアシスの様々な都市にまで
支配を広げていった
→東北では、衛氏朝鮮というところを倒して、
朝鮮の北部に楽浪などの4つの郡を置いた
※衛氏朝鮮・・紀元前2世紀に中国から逃げてきた衛満という人が、
朝鮮の西北部に建てた国のこと
→南側では、南越という国を倒して、ベトナム北部を武帝の支配下に入れていった
※南越・・秦の滅亡の時に、広東・広西からベトナム北部の地域に
独立して出来た国のこと
=以上のような、積極的な政策を行うことで、武帝は領土をより広げていった
※しかし、一方で漢は財政難に陥ってしまった
→武帝は、財政難を乗り切るために、以下のようなことを行った
・塩、鉄、酒の専売を行った
・均輸、平準などの経済統制の政策を出した
※・均輸・・特産物を納めさせ、その物資が不足している地域に
転売するという物価調整法のこと
・平準・・物資が豊富な時に貯蓄をし、物価が上がった時に物資を
売り出すという物価抑制法のこと
=以上のようなことを行ったが、財政難の克服は失敗に終わった
・武帝の時期は、皇帝に権力が集中していた
→しかし、武帝の死後は、皇帝の側近だった宦官や外戚が実権を握ろうとして争っていた
=そのなかで、勢力をのばしてきた外戚の王莽という人が漢の皇帝を廃位して、新を作った
※・宦官・・後宮に仕える去勢された男性のこと
・外戚・・皇后の親族のこと
・王莽は、儒教の理想だった周の時代の制度を復活させることを考えた
→そのため、実情に合わない急激な改革を行おうとした
※その時に、各地で反乱が起き、新は倒れてしまった
=この時の争いを、赤眉の乱という
・その後、動乱の中で漢の一族だった劉秀という人が豪族を連れて勢力を伸ばした
→この時に劉秀は、漢を復活させた
※この時に復活した漢を後漢という
=劉秀は、漢を復活させた時に、光武帝と呼ばれる皇帝になった
→光武帝は、都を洛陽に移した
※その時に、国内の政治を重視する方針を採用して漢王朝を再び盛り上げようとした
→しかし、その後は儒学を勉強して官界に出てきた豪族と、
皇帝の側近である宦官や外戚との間で対立が深まった
=その結果、官僚や学者に対する弾圧など、党派争いが繰り返された
※この時の弾圧を、党錮の禁という
・2世紀の終わりに、宗教結社を中心とした黄巾の乱という争いが起きた
→その時、各地で群雄割拠(実力者が各地で勢力を張り、お互いに争いあうこと)が起きた
=その結果、220年に後漢が滅んでしまった
ポイント
・漢の時代の流れと政治の様子をおさえる
このあたりが今回のポイントです