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	<title>アラエス &#187; 陽明学</title>
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	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
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		<title>陽明学・古学・古義学・古文辞学・古学派・寛政異学の禁について</title>
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		<pubDate>Thu, 14 Nov 2013 19:30:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ゴンショウ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本思想前期　－古代・中世・近世・幕末－]]></category>
		<category><![CDATA[中江藤樹]]></category>
		<category><![CDATA[伊藤仁斎]]></category>
		<category><![CDATA[古学]]></category>
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		<category><![CDATA[寛政異学の禁]]></category>
		<category><![CDATA[山鹿素行]]></category>
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		<category><![CDATA[陽明学]]></category>

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		<description><![CDATA[陽明学と、古学・古義学・古文辞学の古学派について考えます &#160; &#160; &#160; ・陽明学について 　→日本の陽明学を生み出したのは、中江藤樹という人だった &#160; 　・中江藤樹について 　　 　 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1630">陽明学・古学・古義学・古文辞学・古学派・寛政異学の禁について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>陽明学と、古学・古義学・古文辞学の古学派について考えます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・陽明学について</p>
<p>　→日本の陽明学を生み出したのは、中江藤樹という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中江藤樹について</p>
<p>　　</p>
<p>　　・人を愛し敬うこと（＝孝）が道徳の根本だと考えた</p>
<p>　　　→ただし、親子だけでなく、主従関係や夫婦・友人などの様々な人間関係に</p>
<p>　　　　孝が当てはまると考えた</p>
<p>　　　※孝は、全てに当てはまる考え方だが、時と場所と身分に合わせて</p>
<p>　　　　使わないといけないと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・人が生まれながらに持っている正しい判断力（＝良知）が重要として、</p>
<p>　　　自分の良知を発揮させるべきと考えた</p>
<p>　　　※中江藤樹は、良知を孝の最も基礎の部分だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・「翁問答」という本を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・古学について</p>
<p>　→日本で古学を提唱したのは、山鹿素行という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・山鹿素行について</p>
<p>　</p>
<p>　　・儒学の立場から、当時存在していた武士道を批判し、士道を提唱した</p>
<p>　　　※武士道：武士は名前を重視すること、恥を知ること、</p>
<p>　　　　　　　　君主に対してわが身を犠牲にして委ねることなどを提唱した</p>
<p>　　　　士道：武士は礼儀を重視すること、威厳を持って、人格を立派にし、</p>
<p>　　　　　　　欲のために心を動かさないことなどを提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※なぜ、武士道はダメで、士道が良いと考えたのか</p>
<p>　　　　→山鹿素行は、「武士は、道徳については指導者でなければいけない」と考えていて、</p>
<p>　　　　　武士道では、道徳の指導者になれないと思ったから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・朱子学の考えの一つに含まれている「天理」を、抽象的だとして批判した</p>
<p>　　　→抽象的だと実行できないと考え、道理を日常生活の実用的な範囲に限定して、</p>
<p>　　　　欲望などを容認した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→天理のような考え方が生まれるのは、孔子や周公の考え方を様々な形で</p>
<p>　　　解釈していくうちにどんどん抽象的な方向に向かってしまったのが原因だから、</p>
<p>　　　孔子や周公の後の時代に生まれた考え方を無視して、</p>
<p>　　　直接孔子や周公の考え方を学ぶべきだと考えた</p>
<p>　　　＝そのため、このような考え方を古学と言い、山鹿素行が古学を提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※山鹿素行は「聖教要録」という本を書き、その中で朱子学を批判したため、</p>
<p>　　　島流しの刑となった</p>
<p>　</p>
<p>　　※江戸時代中期に、武士道について、山本常朝という人が、「葉隠」という本で</p>
<p>　　　「武士道といふは死ぬことと見付けたり」と考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・山鹿素行の古学はその後、古義学と古文辞学に分かれた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・古義学について</p>
<p>　　→古義学を生み出したのは、伊藤仁斎という人だった</p>
<p>　　</p>
<p>　　※古義学とは・・古学の中でも、「論語」や「孟子」などを</p>
<p>　　　　　　　　　　緻密に読み解く勉強の方法を提唱した学問のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・伊藤仁斎について</p>
<p>　</p>
<p>　　・全ての物事は生まれ働き動き続けるので、止まることがない</p>
<p>　　　そのため、私達の生きている世界は、変化し続ける「一大活物」というふうにとらえた</p>
<p>　　　※人間関係も同じで、頻繁に会う身近な人との交流以外に、人間関係は無いと考えた</p>
<p>　　　　＝自分と全く関係ない人は、自分と交流関係があるとは言えない</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そこで伊藤仁斎は、上のような考え方から、</p>
<p>　　　「仁は愛のみ」「われよく人を愛すれば、人またわれを愛す」と考えた</p>
<p>　　　※仁とは・・人と人の関わりにおいて自分と他人がとがお互いに親しみ、</p>
<p>　　　　　　　　　お互いに愛することで、伊藤仁斎は、仁を行為の中で理想だと考えた</p>
<p>　　　※しかし、仁はかすむ程度で弱いため、他人の苦しみを直接感じることは</p>
<p>　　　　できないと考えた</p>
<p>　　　　→そこで、仁を全ての場面で広く、深く実現されるために・・</p>
<p>　　　　　・他人に自分をつくして、全くウソをつかないこと（＝忠信）が大切だと考えた</p>
<p>　　　　　・「論語」や「孟子」などを学び、他人にとってふさわしい行動（＝義）を</p>
<p>　　　　　　知るべきだと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・伊藤仁斎は、仁を達成することで誠に近づけると考えた</p>
<p>　　　※誠とは・・人と人との関わる時に、飾ったりすることなく純粋な心で対応できること</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・「童子問」や「語孟字義」という本を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・古文辞学について</p>
<p>　　→古文辞学を生み出したのは荻生徂徠という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※古文辞学とは・・「六教」を学ぼうとした時に、「六教」は古文辞で書かれているから、</p>
<p>　　　　　　　　　　　古文辞を学んで、「六教」を学ぼうとする学問のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・荻生徂徠について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・荻生徂徠は、「天下を安んずるの道（安天下の道）」を考えた</p>
<p>　　　→この考え方から、儒学の重要な部分は、人々の生活が安定し、</p>
<p>　　　　人々が安心して生きられることを自覚すること＝経世済民だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・荻生徂徠がここで言う「道」とは、自然などの道理ではなく、</p>
<p>　　　政治を行う人のために聖人（儒教で理想とされた人達のこと）によって</p>
<p>　　　作られた礼楽刑政のことを指している</p>
<p>　　　＝礼楽刑政は、尭や舜（２人とも聖人）などによって作られた</p>
<p>　　　　儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度や習慣、風習だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・荻生徂徠は、上のような考え方から、</p>
<p>　　　→人々の生活が安定するとは、「人々の意見や才能を育てて発揮させること」であり、</p>
<p>　　　　礼楽刑政はその手段として使うべきだと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・礼楽刑政は、「論語」以前の書物の六経に古文辞（古語）で記されているから、</p>
<p>　　　礼楽刑政を知るためには、古文辞を学ばなければいけないと考えた</p>
<p>　　　→このような考え方から、荻生徂徠は古文辞学を生み出し、古文辞学を重視した</p>
<p>　　　※六経－五経に「楽経」を加えたもののこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・「弁道」という本を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らをまとめて、古学派と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・寛政異学の禁について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・寛政異学の禁とは・・聖堂学問所で朱子学以外の儒学の講義をすることを</p>
<p>　　　　　　　　　　　　禁止した出来事のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・具体的な流れ</p>
<p>　　・江戸幕府は、聖堂学問所（後の昌平坂学問所）を設置するなど、</p>
<p>　　　儒学を使っての武士の教育を行ったが、寛政の改革の時に寛政異学の禁が出されて、</p>
<p>　　　儒学の勢いが弱まった</p>
<p>　　　※一方で、藩校や私塾などが多く設けられ、儒学の考え方は少しずつ浸透していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※この出来事に関しての注意点</p>
<p>　</p>
<p>　　・なぜ、朱子学以外の儒学を禁止したのか</p>
<p>　　　→朱子学は、儒学の中でも、身分制度の意識が強く、</p>
<p>　　　　幕府が身分制度を根付かせたかったからだと言われている</p>
<p>　</p>
<p>　　・なぜ、寛政異学の禁が出されたのに、藩校や私塾で儒学は教えていたのか</p>
<p>　　　→寛政異学の禁が出されたのは、聖堂学問所だけで、それ以外には出されていないから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・では、なぜ全国的に禁止にしないのか</p>
<p>　　　→当時の幕藩体制は、幕府と地方で政策が違い、幕府が寛政異学の禁について</p>
<p>　　　　地方に口出しをしなかったからだと言われている</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・中江藤樹が陽明学を生み出し、孝を重視した上で、良知を孝の根本に置いた</p>
<p>・山鹿素行が古学を生み出し、儒学の立場から武士道を批判した上で士道を主張した</p>
<p>・山鹿素行は、朱子学の天理を抽象的と批判し、道理を日常生活の範囲に限定すると同時に、</p>
<p>　欲望や情念を容認した</p>
<p>・山鹿素行は、後世を無視して、孔子や周公の考え方を学ぶべきだとして、古学を提唱した</p>
<p>・山本常朝が「葉隠」を書いた</p>
<p>・伊藤仁斎が古義学を生み出し、仁を提唱した</p>
<p>・伊藤仁斎は、仁のために忠信と義を重視し、仁を達成することで誠に近づけると考えた</p>
<p>・荻生徂徠は、古文辞学を生み出し、安天下の道を考え、礼楽刑政を提唱した</p>
<p>・古義学と古文辞学をまとめて古学と言う</p>
<p>・山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らをまとめて古学派と言う</p>
<p>・儒学と朱子学に関連して、江戸時代に寛政異学の禁が出された</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1630">陽明学・古学・古義学・古文辞学・古学派・寛政異学の禁について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>朱子学と陽明学について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1622</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1622#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 14 Nov 2013 17:14:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[中国思想]]></category>
		<category><![CDATA[儒教]]></category>
		<category><![CDATA[四書五経]]></category>
		<category><![CDATA[心即理]]></category>
		<category><![CDATA[朱子学]]></category>
		<category><![CDATA[格物致知]]></category>
		<category><![CDATA[王陽明]]></category>
		<category><![CDATA[理気二元論]]></category>
		<category><![CDATA[知行合一説]]></category>
		<category><![CDATA[自己修養]]></category>
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		<description><![CDATA[朱子学と陽明学について考えます &#160; &#160; ・朱子学と陽明学が誕生するまでの経緯 　→①漢の時代に、四書五経を代表とする儒教の古典が成立した 　　②その後、儒教の四書五経の内容を解釈していくための学問とし [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1622">朱子学と陽明学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>朱子学と陽明学について考えます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・朱子学と陽明学が誕生するまでの経緯</p>
<p>　→①漢の時代に、四書五経を代表とする儒教の古典が成立した</p>
<p>　　②その後、儒教の四書五経の内容を解釈していくための学問として、</p>
<p>　　　経学というのが生まれる</p>
<p>　　③経学の中で、四書派と五経派に分かれる</p>
<p>　　④五経の字や句点などの解釈をする訓詁学が、五経を使って発達した</p>
<p>　　　また、四書を解釈する朱子学と陽明学が、四書を元に誕生した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→ここでは、朱子学と陽明学の考え方を見ていく</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・朱子学</p>
<p>　・完成させたのは朱子という人で、朱子は理気二元論を打ち立てた</p>
<p>　　※理気二元論とは・・全てのものは理と気から出来ている、という考え方</p>
<p>　　　・理：宇宙から人間まで、全てを支配する最高のルールの根本のこと</p>
<p>　　　・気：全ての物を作るための物質のこと（ただし、具体的に何かは分からない）</p>
<p>　　　　※朱子は、気の中に理があると考えた</p>
<p>　</p>
<p>　　　→この２つが互いに効果を表すことで、全てのものは成り立つとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朱子のもう一つの考え方</p>
<p>　　・朱子は徳治主義を発展させて、自己修養（修己）の考えを生み出した</p>
<p>　　　※自己修養：よりよい徳治主義のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・朱子が自己修養を達成させるために考えたこと</p>
<p>　　　・朱子は、－・自分の中にある理に基づいて、欲を抑えて言動をつつしむ＝居敬</p>
<p>　　　　　　　　　・外の物の一つ一つの理を極める＝格物窮理</p>
<p>　　　　　→この２つを重視した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→居敬と格物窮理を合わせて居敬窮理と言い、この居敬窮理によって、</p>
<p>　　知（智）を極めるべきだとした</p>
<p>　　＝この考え方を格物致知と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・陽明学</p>
<p>　・王陽明（王守仁）が提唱し、朱子学を批判した</p>
<p>　</p>
<p>　・王陽明の考え方</p>
<p>　　</p>
<p>　　・王陽明は、人間の心がそのまま理である（＝心即理）と考えた</p>
<p>　　　※朱子は気の中に理があるとして、気と理を別々に考えたため、</p>
<p>　　　　王陽明は朱子を性即理だと考えた</p>
<p>　　・心即理には、元々良知（良い知）があるとした上で、</p>
<p>　　　良知を窮めること（＝致良知）を目指すべきだとした</p>
<p>　　</p>
<p>　　→この２つから王陽明は、「知」を知っていても、活用しなければ意味がないと考えた</p>
<p>　　→そのため、王陽明は実践を重視した考え方（＝知行合一説）を主張した</p>
<p>　　　※知行合一説：知識と行動は一体である、という考え方</p>
<p>　　　　　　　　　　＝知識を行動に反映させないと意味がない</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・四書五経の解釈の一つとして、朱子学と陽明学が生まれた</p>
<p>・朱子学の中心は朱子で、朱子が理気二元論を打ち立てた</p>
<p>　※理と気と理気二元論の考え方を抑える</p>
<p>・朱子は自己修養の考え方を生み出した</p>
<p>　→自己修養達成のために、居敬窮理によって知を窮めるべきだと考え、</p>
<p>　　この考え方を格物致知と言う</p>
<p>・王陽明が陽明学を提唱し、朱子学を批判した</p>
<p>・王陽明は心即理を考え、朱子学を性即理とし、心即理で致良知を目指すべきだとした</p>
<p>・王陽明は、知を知っていても、活用しなければ意味がないと考え、知行合一説を主張した</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1622">朱子学と陽明学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>元禄文化の文学と儒学について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1218</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1218#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 10:01:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代中期]]></category>
		<category><![CDATA[井原西鶴]]></category>
		<category><![CDATA[儒学]]></category>
		<category><![CDATA[元禄文化]]></category>
		<category><![CDATA[古学派]]></category>
		<category><![CDATA[垂加神道]]></category>
		<category><![CDATA[大義名分論]]></category>
		<category><![CDATA[松尾芭蕉]]></category>
		<category><![CDATA[経世論]]></category>
		<category><![CDATA[近松門左衛門]]></category>
		<category><![CDATA[陽明学]]></category>

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		<description><![CDATA[元禄文化の文学と儒学について考えてみます &#160; &#160; ・元禄文化について &#160; 　※元禄時代に、幕府の政治が安定して経済が成長してくると、武士や町人だけではなく、 　　庶民でも様々な文化が出てきた [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1218">元禄文化の文学と儒学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>元禄文化の文学と儒学について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・元禄文化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※元禄時代に、幕府の政治が安定して経済が成長してくると、武士や町人だけではなく、</p>
<p>　　庶民でも様々な文化が出てきた</p>
<p>　　＝この時期の文化を、元禄文化という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・元禄文化の特徴</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・人間と社会を現実主義や実証主義でとらえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・町人の中から、現世を「浮き世」と見ることで現実を描こうとする文学が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・儒学や古典研究、自然科学の学問などが重視された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・元禄時代の文学について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※元禄時代の文学は、上方という地方の町人文芸が中心だった</p>
<p>　　→代表的な人に、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門などがいる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・松尾芭蕉について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・松尾芭蕉は伊賀の出身だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・蕉風（正風）俳諧という、さびやかるみや静けさなどで表現される俳諧を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的な作品に「奥の細道」という作品がある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・井原西鶴について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・井原西鶴は大坂の町人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・井原西鶴は、西山宗因という人から勉強して、談林俳諧という俳諧で注目され、</p>
<p>　　　浮世草子という小説を描いた</p>
<p>　　　</p>
<p>　　・代表的な作品に「好色一代男」などの好色物、「武道伝来記」などの武家物、</p>
<p>　　　「日本永代蔵」や「世間胸算用」などの町人物などがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・近松門左衛門について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・近松門左衛門は、武士の出身だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・近松門左衛門は、義理と人情で悩む人の様子を、人形浄瑠璃や歌舞伎の</p>
<p>　　　脚本によって描いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・近松門左衛門の作品は、人形遣いの辰松八郎兵衛などが演じ、</p>
<p>　　　竹本義太夫などが語って、民衆に共感された</p>
<p>　　　※竹本義太夫の語りは、義太夫節と呼ばれ、独立した音曲に成長した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的な作品に「曽根崎心中」などの世話物、</p>
<p>　　　「国性（姓）爺合戦」などの時代物などがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の歌舞伎について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・歌舞伎が当時の民衆の演劇として成長していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・江戸や上方には、芝居小屋が設置された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・歌舞伎では、以下のような有名な役者が出た</p>
<p>　　　→江戸で、いさましい演技（荒事）によって評判になった</p>
<p>　　　　初代市川団十郎という人が出た</p>
<p>　　　→上方で、恋愛劇（和事）を得意とした坂田藤十郎という人が出た</p>
<p>　　　→上方で、女形の代表として芳沢あやめという人が出た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の儒学について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・儒学は、幕藩体制の社会での人々の役割について解説したため、盛んになった</p>
<p>　　※中でも朱子学は、大義名分論（身分を重視する考え方）をベースにして、</p>
<p>　　　身分秩序や礼儀を重視した</p>
<p>　　　→そのため、朱子学が封建社会を維持する目的で、教学として幕府や藩で重視された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朱子学は戦国時代に土佐で始まったとされている</p>
<p>　　※朱子学の一派として、谷時中という人に受け継がれた南学（海南学派）</p>
<p>　　　という学派があった</p>
<p>　　　→南学の系統から、山崎闇斎や野中兼山という人達が出てきた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　※山崎闇斎は、垂加神道という神道を説いた</p>
<p>　　　→垂加神道とは・・今までの伊勢神道や唯一神道、吉川惟足という人の吉川神道などを</p>
<p>　　　　　　　　　　　　土台にした神道のこと</p>
<p>　　　→垂加神道は、神の道と天皇の徳が一体だと考えた</p>
<p>　　　　＝その考え方が、崎門学という学問での尊王論の根拠になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中江藤樹や、その弟子の熊沢蕃山などは、明の王陽明という人が始めた陽明学を勉強した</p>
<p>　　→陽明学は、知行合一という考え方の立場から現実を批判するなど、</p>
<p>　　　革新的な考え方だった</p>
<p>　　　＝そのため、陽明学は幕府から批判された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※熊沢蕃山は「大学或問」という本などで、武士土着論という考え方を提唱して、</p>
<p>　　　幕府を批判した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・山鹿素行や伊藤仁斎などの人達が、古学派という学問を始めた</p>
<p>　　※古学派・・孔子や孟子の古典に戻ろうとする考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※山鹿素行は、朱子学を批判して「聖教要録」を、日本を「中朝」と呼ぶ考え方から</p>
<p>　　　「中朝事実」などの本を書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※伊藤仁斎とその子どもの伊東東涯の親子は、京都の堀川という場所で</p>
<p>　　　私塾の古義堂という塾を開いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・伊藤仁斎の古学を受け継いだ荻生徂徠という人が、経世論という考え方を提唱し、</p>
<p>　　江戸に私塾の蘐園塾を開いた</p>
<p>　　※経世論・・社会を治める具体的な方法に対する考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※荻生徂徠は、都市の拡大を抑えて、武士の土着が必要だという考え方を示した</p>
<p>　　　→そのため荻生徂徠は、柳沢吉保や８代将軍徳川吉宗などに用いられ、</p>
<p>　　　　享保の改革の時に顧問の役割を果たした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※荻生徂徠の弟子だった太宰春台という人が経世論を発展させ、武士も商業をして、</p>
<p>　　　専売制度で利益を出すべきだと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・元禄文化の概要を押さえる</p>
<p>・元禄時代の文学を押さえる</p>
<p>・当時の儒学とそれぞれの思想を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1218">元禄文化の文学と儒学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<title>明の後期の社会と文化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/884</link>
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		<pubDate>Sun, 13 Oct 2013 20:27:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代アジア史前期]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ＝ザビエル]]></category>
		<category><![CDATA[一条鞭法]]></category>
		<category><![CDATA[家内制手工業]]></category>
		<category><![CDATA[心即理]]></category>
		<category><![CDATA[明]]></category>
		<category><![CDATA[景徳鎮]]></category>
		<category><![CDATA[王陽明]]></category>
		<category><![CDATA[知行合一]]></category>
		<category><![CDATA[致良知]]></category>
		<category><![CDATA[陽明学]]></category>

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		<description><![CDATA[明の後期の社会と文化について考えてみます &#160; &#160; ・明の後期の社会と文化について &#160; &#160; 　・国際商業の活発化は、中国国内の商工業の発展を促した 　　※長江の下流域では、綿織物や生 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/884">明の後期の社会と文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明の後期の社会と文化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明の後期の社会と文化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・国際商業の活発化は、中国国内の商工業の発展を促した</p>
<p>　　※長江の下流域では、綿織物や生糸に代表される家内制手工業が盛んになった</p>
<p>　　　→そのため、家内制手工業のための原料になる綿花や養蚕に必要な桑の栽培が普及した</p>
<p>　　　　＝すると、明の末期には長江中流域の湖広（現在の湖北・湖南省）が</p>
<p>　　　　　新しい穀倉地帯になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※また、景徳鎮というのが代表的になった陶磁器も生産をのばした</p>
<p>　　　＝結果的に生糸や陶磁器は、日本やアメリカ大陸、ヨーロッパに輸出される</p>
<p>　　　　代表的な国際商品だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・商業や手工業の発展に伴って、山西商人や徽州（新安）商人など、</p>
<p>　　明の政府と結びついた特権商人が全国的に活動して、巨大な富を築いていった</p>
<p>　　</p>
<p>　　※大きな都市には、同郷の出身者や同業者の互助や親睦を深めるための会館や公所も作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※税の納入が銀で行われるようになった</p>
<p>　　　→１６世紀には、一条鞭法の改革が行なわれた</p>
<p>　　　　※一条鞭法・・それぞれの銀や徭役を銀に一本化して納めること</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・貨幣経済の発展とともに、都市には商人や郷紳などの富裕な人々が集まった</p>
<p>　　→このような富裕な人達は、庭園の建設や骨董の収集などを行い、文化的な生活を楽しんだ</p>
<p>　　　※明を代表する画家と書家であった董其昌という人のように、</p>
<p>　　　　高級の官僚を経験しながら芸術家として有名になっていった文化人も多かった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・木版印刷による書物の出版も急増した</p>
<p>　　→そのため、科挙の参考書や小説、商業や技術関係の実用書などが多数出版され、</p>
<p>　　　書物の購買層が広がった</p>
<p>　　　※「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」などの小説が多くの読者を得た　</p>
<p>　　　※庶民向けの講談や劇も都市のさかり場や農村などでさかんに演じられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・儒学の中では、１６世紀の初めに王守人（王陽明）という人が、心即理を主張した</p>
<p>　　→そのため、外面的な知識や修養による当時の朱子学の傾向を批判した</p>
<p>　　※心即理・・勉強をしていない庶民や子どもでも、最初から心のなかに</p>
<p>　　　　　　　　真正の道徳を持っているという考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・さらに、致良知や知行合一を提唱した陽明学が、学者に加えて庶民の間でも広い支持を得た</p>
<p>　　※致良知・・ありのままの善良な心に戻ること</p>
<p>　　　知行合一・・ありのままの心に合わせて実践を行うこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明の末期の文化の一つの特色は、科学技術への関心の高まりだと言われている</p>
<p>　　→李時珍の「本草綱目」、徐光啓の「農政全書」、宋応星の「天工開物」、</p>
<p>　　　徐光啓などが編集の「崇禎暦書」、などの科学技術書が当時作られた</p>
<p>　　　※この時代の科学技術書は、日本や東アジア諸国などにも影響を与えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の科学技術の発展には、１６世紀半ば以降東アジアに来航したキリスト教宣教師の活動も</p>
<p>　　重要な役割を果たしたと言われている</p>
<p>　　※日本でのキリスト教普及の基礎を作ったイエズス会宣教師の</p>
<p>　　　フランシスコ＝ザビエルという人は、中国での布教を目指したが実現しなかった</p>
<p>　　　→その後、マテオ＝リッチという人などが１６世紀の終わりに、中国に入って布教を行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→日本と中国では、キリスト教の動きについて以下のような違いがあった</p>
<p>　　　・日本・・キリスト教が庶民層に広まった</p>
<p>　　　・中国・・ヨーロッパの天文学や地理学、軍事技術など科学技術に関心を持つ士大夫層が</p>
<p>　　　　　　　　キリスト教を受け入れた</p>
<p>　　　　※リッチなどが作った世界地図の「坤輿万国全図」は、中国に新しい地理知識を広めて、</p>
<p>　　　　　日本にも伝えられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・明の後期の社会についておさえる</p>
<p>・明の後期の文化についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/884">明の後期の社会と文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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