第一次世界大戦の時のインドについて
第一次世界大戦の時のインドについて考えてみます
・第一次世界大戦の時のインドについて
※第一次世界大戦の時は、インドの兵隊が大量に戦争へ送られ、大量の戦死者を出した
→このような状況の中でイギリスは、民族自決という国際世論の圧力に押されて
自治を約束した
・1919年に、1919年インド統治法という法律が出来た
→この法律は、州の行政の一部をインド人にゆだねるというものだった
※しかし、中央の部分はイギリスが握り続けるものだった
=そのため、1919年インド統治法は、自治とはほど遠い内容だった
・また、1919年インド統治法と同時に極めて圧力の強いローラット法という
法律が制定された
・さらに、アムリットサールでイギリス軍が民衆に発砲して多くの死傷者を出す
という事件も起きた
=上の一連の流れは、インドの民衆の激しい反発を呼んだと言われている
→上のように、植民地政府が強い圧力をかけるという支配に対して、非暴力をかかげて
インドの民衆の新しい指導者として登場したのが、ガンディーという人だった
※ガンディーは、南アフリカでのインド人移民への差別撤廃運動に勝利して、
インド人に熱狂的に受け入れられた
・ガンディーは、1920年の国民会議大会で、植民地統治に協力しない運動の方針を示した
→この方針によって、民族運動を、一般大衆を加えた全インド的な民族運動にまで
大きくなっていった
※この時、オスマン帝国のカリフ制を擁護する運動への支持を
ヒンドゥー教徒に呼びかけることで、ムスリムの支持を得ることにも成功した
→しかし、民衆の運動はガンディーの理想通りに進まなかった
※農民による警官殺害事件が発生した
=そのため、1922年に運動が中止された
・その後、運動方針の対立、ヒンドゥー教徒とムスリム教徒の宗教対立が深刻化していった
→そのため、民族運動が混乱かつ停滞した
※この後ムスリムは、反国民会議派、イギリス友好路線を進んだ
・1927年に、憲政改革調査委員会にインド人が含まれていなかったことを理由に、
民族運動がまた激しくなった
→激しい民族運動に直面したインド総督は、以下のような行動を選択した
・インドを自治領とすることを約束した
・新しいインド統治法の内容をロンドンでの円卓会議で検討することを発表した
※しかし、自治実現の日程は示さなかった
=そのため、1929年に国民会議派内のネルーという人などの急進派が、
完全な独立(プールナ=スワラージ)を決めた
・運動に呼び戻されたガンディーは、植民地支配が合理的でないことを象徴的に示すために、
1930年に「塩の行進」と呼ばれる運動を始めた
※塩の行進とは
→ガンディーなどが、日常的にもっとも必要としている塩への課税を、
植民地支配の象徴だと考えて、違法ながら塩づくりを行うことで、
植民地支配に抵抗する運動のこと
・塩の運動の後、円卓会議で合意の達成が出来ず、1932年に運動が再開した
→「塩の行進」という運動で、多くの人々が逮捕された
=そのため、1934年にガンディーは運動を中止した
・次の年の1935年に、1935年インド統治法という法律が誕生した
→この法律で、以下のようなことが決められた
・州の政治はインド人に任せることになった
・中央の財政や外交などはイギリスがコントロールし続けることになった
=そのため、完全独立の要求からかなり遠いものだった
→1937年に、1935年インド統治法のもとで州選挙が行なわれた
※国民会議派が多かった州で政権を獲得できた
※ムスリムが多い州は、ムスリムを中心とする地域政党が勝利した
・ジンナーという人を指導者とする全インド=ムスリム連盟は、1940年に
イスラーム国家であるパキスタンの建設を目標にかかげた
・そして、第二次世界大戦が始まると、国民会議派が完全独立を要求した
→この動きに対して、イギリスは以下のようなことを行った
・完全独立をおさえつけた
・国民会議派を非合法化した
・ガンディーを始めとする指導者を投獄した
ポイント
・第一次世界大戦の時のインドについておさえる
このあたりが今回のポイントです