東欧社会主義圏の解体の様子について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/18 03:59      
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東欧社会主義圏の解体の様子について考えてみます

 

 

・東欧社会主義圏の解体の様子について

 

 

 ・1980年のポーランドでは、食品の値上げに抗議するストライキ運動が起きた

  →この時に、ワレサという人を指導者として自主管理労組の「連帯」が組織された

   =連帯が、政府に改革を求めていった

 

  ※ポーランドの改革運動は、東欧社会主義圏でも社会主義の体制が

   閉塞的な状況であることを示したと言われている

 

 

 

 

 

 ・ソ連の改革が進むと、西側との経済格差や言論活動の制限に不満を持つ

  東欧の社会主義の国々の人々が一斉に行動に出るようになったと言われている

 

 ・1989年10月に、東ドイツで西側への脱出者が急増してきたために、

  ホネカ-書記長が退陣した

  →その後、1989年11月にベルリンの壁が開放されることで、

   東西ドイツ間の自由な行き来が認められた

 

 ・1990年3月の東ドイツの自由選挙で、早期統一を求める連合党の派閥が勝利した

  →すると、1990年10月に、西ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の

   同意を得て、東ドイツを吸収した

   =その結果、東と西のドイツが組み合わさり、統一ドイツが実現された

 

 

 

 ・上のような動きの前後に、ハンガリー、ポーランド、ブルガリア、チェコスロヴァキアでも、

  社会主義体制の根本的な転換を求める民衆運動が起きた

  →この民衆運動は、無血革命となって勝利した

   =その結果、自由選挙による議会制民主主義と市場主義に移動していった

 

 

 

 ・ルーマニアは、チャウシェスクの独裁体制が続いていた

  →しかし、1989年12月に反体制運動が起きて、チャウシェスク夫妻が処刑された

 

 

  →上の国々の動きによって、東欧圏の各国の共産党は解散するか、

   社会民主主義政党に改編された

 

  →さらに、1991年にコメコンやワルシャワ条約機構が消滅した

   

   =これらの動きの結果、東欧社会主義圏は消滅した

 

 

 

 

 

 ・一方で、ユーゴスラヴィアは独自の社会主義体制をとっていた

  

 ・ユーゴスラヴィアは、1980年にティトーが亡くなった後に、

  内部の民族や宗教による対立が深まった

 

 ・1990年以降に、ソ連崩壊崩壊後の民族運動の影響があって、

  ユーゴスラヴィアが内戦状態になった

  →その結果、1991年にクロアティアとスロヴェニアが分離した

 

 ・その後も、旧ユーゴ内の残っていた紛争がおさまらなかった

  →そのため、1999年にはコソヴォ地域に関する民族対立では、

   NATO軍が介入するという事態にまでなった

 

  =現在、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの

   4国が併存して、緊張状態が続く状況となっている

 

 

ポイント

・東欧社会主義圏の解体の様子についておさえる

・各国の様子についておさえる

  

このあたりが今回のポイントです 

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