古墳時代について② -ヤマト政権の政治スタイルと地方の政治の様子-
古墳時代について、ヤマト政権の政治スタイルと地方の政治の様子について考えてみます
・ヤマト政権の政治制度について
・倭の五王が中国の南朝に朝貢したことで、倭の五王と認められた
・倭の王の権力が勢力を広げていって、地方豪族を倭の王に従わせるようになった
→5世紀の後半から、6世紀にかけて、大王が中心のヤマト政権が
地方の豪族を従わせる支配の仕組みを作っていった
→支配したことは、埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣と熊本県の江田船山古墳の鉄刀に、
「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という大王の名前と、
大王に協力した豪族の名前が書いてあることからわかる
※ここでの大王は、倭王武(=雄略天皇)である
・氏姓制度という支配の仕組みを作った
※氏姓制度について
・豪族は氏(血縁関係をもとにして作られた組織のこと)にまとめられ、
氏ごとにヤマト政権の仕事を分けた
→その時に、大王が豪族に姓(カバネ)を与えて、順序をつけた
※姓の呼び名について
・近畿とその周辺の有力な豪族(蘇我など)→臣
・決まった職務を行う豪族(大伴、物部など)→連
・地方の有力豪族→君
・一般の地方豪族→直
※中央の政治について
・中央の政治は、臣と連の姓の豪族から、大臣、大連が任命されて、政治を行った
→その下の位の伴造が、伴やそれを支える部という集団を連れて
軍事、財政、祭祀、外交などの仕事を行った
※渡来人も伴造や伴に組み込まれ、品部という職能集団が伴造や伴を支えた
・地方の政治について
・大王の権力の拡大に対しては、地方の豪族の抵抗があった
※抵抗が大きくなって起きた出来事として、磐井の乱という戦いがあった
・磐井の乱・・6世紀初めに、筑紫国造磐井という豪族が新羅と手を組んで起こした
大きな戦乱のこと
→磐井の乱は、大王の軍が2年かけて制圧してしまったため、
新羅側は負けに終わった
・ヤマト政権は、地方の豪族の抵抗を排除しながら、
地方豪族をヤマト政権に従わせるようにしていった
→排除と同時に、ヤマト政権の直轄領として屯倉を、直轄民として名代・子代を
地方の各地に作っていった
・6世紀に、地方豪族を国造(各地域の支配者)に任命して、
その地方を支配する権利をヤマト政権から保障された
※その代わり、地方豪族の子供を舎人(中央政府で仕事をする人のこと)として、
ヤマト政権に送り、地方の特産物を献上すること、屯倉や名代・子代の管理をすること、
軍事行動をすることなどを通して、ヤマト政権に貢献することにもなった
・地方の豪族は、田荘という私有地や部曲という私有民を経済的な基盤として使っていた
※当時の土地と人の支配は、ヤマト政権も地方も私地私民だった
※氏には、奴(奴婢)という奴隷が存在していた
ポイント
・古墳の変化を押さえる
・古墳時代の人々の生活様式を押さえる
・ヤマト政権の政治スタイルを、中央と地方でそれぞれ押さえる
このあたりが今回のポイントです