武士について① -地方の反乱と武士の成長について-
武士について、地方の反乱と源氏の登場について考えてみます
・地方の反乱と武士の成長について
※9世紀末から10世紀にかけて、地方の政治が大きく変わったと言われている
→そこで、地方の豪族や有力な農民は、自分達の勢力を維持したり拡大したりするために
武装するようになった
=そのため、各地で紛争が起きた
→紛争の鎮圧のために、政府から押領使や追捕使に任命された中級・下級貴族が送られた
※中級・下級貴族の中には、そのまま在庁官人などになって現地に残り、
武士(兵)になる人が出てきた
※押領使や追捕使は、両方とも盗賊の追捕や内乱の鎮圧のために派遣された
※押領使や追捕使は、最初は臨時に任命されていたが、
段々と様々な国に常備されるようになった
→武士は、家子やその下の郎党(郎等、郎従)などの従者を引き連れて、
互いに闘いを繰り返すようになった
※武士の中には、国司に反抗する人が出てきた
→武士は、段々とくっついて、連合体を作るようになった
※辺境(中央から遠いところ)の地方では、任期が終わってもそのまま任地に残った国司の
子孫などを中心にして、大きな武士の集団(=武士団)が成長し始めた
※中でも、東国(関東地方)では、良い馬が産まれるようになったため、
機動力のある武士団が出てくるようになった
・東国では、桓武平氏という氏族が住み着くようになった
→その中でも、桓武平氏の平将門は下総という場所を中心にして、様々な一族と争い、
国司と対立するようになった
=そこで、939年に平将門が反乱が起こした。この争いのことを平将門の乱と言う
・平将門は常陸、下野、上野の国府を攻め落とし、東国の大半を占領した
→そこで、平将門は自分のことを親皇と呼んだ
※しかし、平将門は武士の平貞盛や藤原秀郷という人達によって討伐された
・平将門と同じ頃に、元々伊予(現在の愛媛県)の国司だった藤原純友という人が
瀬戸内海の海賊を引き連れて反乱を起こした
=この反乱のことを藤原純友の乱と言う
※藤原純友の乱の時に、伊予の国府や太宰府を攻め落としたが、
結局、清和源氏という氏族の生みの親である源経基などによって討伐された
→平将門と藤原純友の乱は、上のような経緯によって終わったので、東西の反乱が落ち着いた
※一方で、朝廷の軍事力の低下が明らかになったので、
地方の武士の組織が強化されるようになっていった
→平将門と藤原純友の2つの乱は、その当時の年号から、承平・天慶の乱と言われている
※1019年に、九州北部を刀伊が襲った、という出来事が起きた
→その時は、太宰権帥の藤原隆家という人が、九州の武士達を指揮することで、
刀伊を撃退した
=この出来事は、当時の九州にも武士団があったことが示されていると言われている
・朝廷や貴族は、地方の武士の実力を知ったので、地方の武士を侍として、
朝廷や貴族に奉仕させるようにした
→具体的には・・
・9世紀末に滝口の武士(宮中の警備をする武士)として起用した
・貴族の身の回りや、都の警護にあたらせた
・地方で、押領使や追捕使に任命して、治安維持にあたらせた
・地方で、武士を舘侍や国侍として国司の下で組織させた
※・舘侍・・受領の家子や郎党などのような、受領の直接の指揮下にある武士のこと
・国侍・・国衙の軍事力とした地方の武士のこと
ポイント
・武士について、地方の反乱と武士の成長過程についておさえる
このあたりが今回のポイントです
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