社会運動の登場と当時の生活様式について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 10:59      
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社会運動の登場と当時の生活様式について考えてみます

 

 

・社会運動の登場について

 

 

 ・工場制工業が活発になるにつれて、賃金労働者が増えてきた

  ※1900年の工場労働者の大半は繊維産業で働き、労働者は女性がほとんどだった

 

 

 ・女性労働者(女工または工女とも言う)のほとんどは、家計を助けるために

  出稼ぎに行った小作農家の子供などだった

  →女工は、賃金の前借りや宿舎に泊まって仕事をさせられる、

   ということなどによって工場で縛られることになった

   ※さらに、悪い労働環境、ものすごい低賃金、長時間労働

    という状況で仕事をしていた

 

 

 ・紡績業では、基本的に2交代制で昼と夜に分けて仕事をさせられた

  ※製糸業では、15~18時間の労働時間などで働いていたこともあった

 

 

 ・当時、重工業の男子の熟練の工員はまだ少なかった

 

 

 ・男子は、鉱山業や運輸業などで働いていた

 

 →当時の苦しい労働の状況について書かれたものに、以下のようなものがある

  ・1888年に、高島炭鉱の悲惨な様子について書かれた「日本人」という雑誌

  ・1899年に、横山源之助という人が書いた「日本之下層社会」という本

  ・1903年に、農商務省というとことが出した「職工事情」という本  など

 

 

 

 

 ・日清戦争前後の産業革命の時に、待遇の改善や賃金の引き上げなどを求めて、

  工場労働者がストライキを起こすようになった

  ※1897年には、全国で40件近くのストライキが起きた

 

 

 ・1897年に、アメリカの労働運動に影響を受けて、高野房太郎や片山潜などの人達が

  労働組合期成会という団体を作って、労働運動の指導をするようになった

  →このような動きに刺激されて、鉄工組合や日本鉄道矯正会などと

   呼ばれる労働組合が作られた

   =そのため、熟練工の人達を中心に、労働者が団結して

    資本家に対抗する動きが出てきた

 

 

 ・1891年に、栃木県の足尾銅山という銅山から出ている鉱毒が

  渡良瀬川流域の農業や漁業に被害をもたらすという公害事件が起きた

  =この公害事件を足尾銅山鉱毒事件という

   ※この事件に対して、田中正造という人が戦った

 

 

 

 ・上のような動きに対して、政府は1900年に治安警察法という法律を作った

  →この法律で、労働者の団結権やストライキ権などの権利を制限することで、

   労働運動を取り締まった

 

 

 ・一方で政府は、労働条件を改善して、労働者と資本家の対立を減らそうと考えた

  →そこで、社会政策という考え方から、日本最初の労働者保護法として

   工場法という法律が考えられるようになった

   

  →工場法は、資本家の反対があったため、1911年に作られることになった

   ※しかし、工場法の内容が充実していないのと同時に、

    工場法は実際には1916年に始まった

    

   ※工場法の内容

    ・少年と少女の労働時間について12時間を限度にした

    ・少年と少女を深夜で働かせることを禁止した

    ・工場法が適用されるのは、15人以上を使う工場だけだった

    ・製糸業は14時間まで認められた

    ・紡績業は期限付きで深夜に働かせることを認めた

 

 

 

 

 ・上のような状況の中で、安部磯雄、片山潜、木下尚江、幸徳秋水などが集まった

  →この人達は、1901年に最初の社会主義政党として社会民主党という党を作った

   ※しかし、社会民主党は治安警察法によって、すぐに解散させられた

 

 

 ・日露戦争が近づいている時に、幸徳秋水や堺利彦などは平民社という団体を作った

  →平民社は、「平民新聞」というものを発行して戦争反対(反戦論や非戦論などと言う)を

   国民に呼びかけた

   =このようにして、社会主義運動が政治運動に進む動きが強まった

 

 

 ・日露戦争の後の1906年に、日本社会党という団体が作られたが、

  次の年に解散させられた

  

  ※なぜ日本社会党が解散させられたのか

   ・日本社会党が出来た時の第1次西園寺公望内閣は、日本社会党をすぐには禁止しなかった

   ・しかし、日本社会党の中で、議会で政策を考えるべきという派(片山潜など)と

    直接行動すべきという派(幸徳秋水など)が対立するということが起きた

    →その時に、直接行動派が優勢になったので、日本社会党を解散させた

 

 

 

 

 ・1910年に大逆事件という事件が起きた

  →政府は、この事件をきっかけにして社会主義運動を本格的に抑えつけていくようになった

   

   ※大逆事件とは・・

    ・第2次桂太郎内閣は、天皇の暗殺を計画していた社会主義運動の人達を捕まえた

    ・その時に、全国で数百人の社会主義者や無政府主義者を検挙した

     →その中で、幸徳秋水など26人を大逆罪という罪で起訴した

      =この出来事を大逆事件という

       ※次の年に26人全員が有罪判決を受け、そのうち12人は死刑判決を受けたが

        ほとんどは天皇の暗殺計画に直接は関わっていなかった

  

   ※大逆事件の時に、警視庁の中に特別高等課(特高)という思想警察が出来た

 

 

 →大逆事件の後から、第一次世界大戦が始まるまで、社会主義の人達は動くことが

  出来ない時代に入った

  =この時代を「冬の時代」という

 

 

 

 

 

・当時の生活様式について

 

 

 ・明治時代に、大都市の官庁、会社、軍隊、学校などは、ガラス窓の建物になり、

  机や椅子を使い、洋服を着て、時間通りに行動するという西洋に近い生活様式を取り入れた

 

 

 ・1880年代の終わりに、大都市で電灯が使われるようになった

 

 

 ・明治初年に鉄道が開通して、1880年代に鉄道馬車が走るようになった

  →1890年代には、京都で路面電車が走るようになった

 

 

 ・女性は、日本髪から束髪というスタイルに変わった

 

 

  →上のように、日本の生活様式は、日本と西洋が混じったような状態だった

 

 

  ※地方の農村や漁村では、石油を使うランプや人力車、洋風の駐在巡査などが

   出てきたものの、人々の日常生活に大きな変化はなかった

 

 

 

ポイント

・社会主義の動きについて押さえる

・当時の生活様式を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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