バブル経済と平成不況について
バブル経済と平成不況について考えてみます
・当時のアメリカとの関係について
・1980年代に、日本のアメリカに対する黒字が増えたため、
アメリカは日本に以下のようなことを求めてきた
→・自動車などの輸出の自主規制
・農産物の輸入自由化 など
→アメリカの交渉に対し、日本は以下のようなことを行った
・1988年に牛肉とオレンジの輸入自由化を考え、1991年に実施した
・1993年にお米の市場の部分開放を決めた
※上のような動きがあっても、アメリカは市場の開放と自由化を妨げている日本経済の
「不公正な」制度や慣行などを問題として取り上げ、日本の批判を強めていった
・当時のアジアの様子について
・アジアで発展途上国だった国や地域の中で、韓国、台湾、香港、シンガポールでは、
外国の資本や技術の導入を土台にして、輸出を意識した工業化が進んだ
→これらの国々はNIES(新興工業地域経済群)と呼ばれ、
世界的な長期不況の中で急激な成長を見せた
※NIESの中でも、東アジア周辺の地域をアジアNIESと呼ぶ
・1980年代までに、「経済大国」となった日本と、
その周辺に位置するアジアNIESの工業生産基地があった経済圏は、
世界経済を活発化させる中心の一つとなった
→このような動きは、経済開放政策を進める中国の経済特区やASEAN諸国などにも
広がっていった
・日本と世界の当時の経済の様子について
・変動相場制に移ってからも、円高の傾向は続いた
→そこで、1985年のG5(5カ国財務相中央銀行総裁会議)での
協調介入の合意が行われた
=この合意をプラザ合意という
※G5・・アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリスの5カ国で合意が行われた
次の年からはイタリアとカナダを加えて
G7(7カ国財務相中央銀行総裁会議)が行われるようになった
→プラザ合意の結果、円高がさらに進んだ
=そのため、輸出を中心とした産業を中心にして不況が一時的に深刻になった
※しかし、一方で輸出が厳しい分、国内に目を向けた企業が増え、
内需拡大による景気を迎えた
→また、不況を乗り越えようとするときに、コンピュータと通信機器を利用した
生産や流通、販売などのネットワークが考えられるようになった
※その影響もあって、重化学工業でもME技術の導入が進んだ
・バブル経済までの流れとその後の様子について
・1987年の手前あたりから、日本が超低金利の政策を出した
→そのため、企業や金融機関に余った資金が不動産や株式市場に流れていくようになった
→結果的に、1987年ころから実際とはズレた状態で地価や株価が上昇する
ということが起きた
=この動きによる当時の景気をバブル景気という
※ただし、バブル経済には以下のようないくつかの問題も発生した
・企業の調子が良い分、労働者の長時間労働を慢性的な状態にした
・ホワイトカラーなどを中心とした「過労死」が問題になった
・国内が好調な分、さらに円高が進んだため、日本企業が海外進出を行い、
国内産業の空洞化が起きた
→そして、1990年初めあたりから株価が、1991年あたりから地価が下がり始めた
=結果的にバブル経済が崩壊することになった
・バブル経済の崩壊によって、多くの不良債権を抱えた金融機関のほとんどが
経営悪化の状態になった
→そのため、金融自体が苦しい状態になり、実際の経済にも影響を与え
不況をもたらすことになった
=この時の不況を複合不況という
※それぞれの企業は、生き残るためにリストラや企業の仕事内容の整理などを行った
→しかし、この動きは大量の失業や雇用に対する不安を生むようになった
=そのため、それぞれの家庭の消費を抑えることになり、
結局不況が深刻になってしまった
・上のような経済の状況の時に、情報通信技術が飛躍的に発達した
→そのため、情報ネットワークが国境を越えて展開するようになっていった
・さらに、アメリカの圧力によって規制緩和や市場の開放などが進められた
→そのため、多くの企業がグローバル化へ向けての準備を考えるようになっていった
=結果的に産業の様々な分野で、国際的な提携や合併などのような再編成が行われた
ポイント
・当時のアメリカとアジアの様子についておさえる
・当時の日本と世界の経済についておさえる
・バブル経済前後の歴史についておさえる
このあたりが今回のポイントです