戦争と税金―戦争は税金の生みの親(イギリスの例)
タイトル通り、戦争と税金は切っても切れない関係にあります。先に大まかなポイントと流れだけ示しておきます。先にポイントを抑えることで理解が早まるかと思います。
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戦争→財政危機→国王の増税路線→議会権力(国民側)の強化→勢力を増した議会が分裂→新たな戦争(内戦)へ→またしても税金論へ・・・
更に下記も合わせて(というより先に読んだほうが?)読んでいただけると、より理解が進むかと思います。↓↓↓
それでは中身に入っていきます。
・17Cの財政危機
17C、スチュアート王政は財政危機に悩んでいた
⇒背景は30年戦争の一環である対スペイン戦争
そこで、臨時税が必要となった。しかし、当時のイギリスでの臨時税はその都度議会の承認が必要だった。そんな中で1625年、国王チャールズ1世が即位。
⇒思っていたほどの税額の承認を得られず・・・
⇒王はふざけるな!ということで議会を解散、承認なしに徴税を実施
⇒1628年、こうした王の対応に不満を持った議会は「権利請願」を起草、王に提出。その第1項が「議会の同意なき課税の禁止」であった。
⇒しぶしぶ裁可したものの、王と議会の関係は次第に悪化
さらに1640年にはまたしても議会を招集せざるを得なくなるも(対スコットランドとの主教戦争)、議会の不満は噴出、法案は議会によって次々に廃止された。
・1643年の新税―査定課税と内国消費税
このように当時のイギリスは、議会の発言力が高まっている状況だった。
⇒こうした背景から議会は徐々に過激化し、1641年には「大抗議文」という王の悪政批判を書き連ねた文書を出すまでになった。これは僅差で可決。
※僅差だったのは「大抗議文」の強硬路線についていけなかった穏健派(ここまでやるとは思っていませんでした、というグループ)が反対に回ったため。
⇒ここから議会内部の勢力も「議会派(強硬派)」と「国王派(穏健派)」に分裂
⇒今度はこの2つが戦争を始めるように(内戦)。議会軍と国王軍は1642年についに衝突。決着はつかなかったものの、その後は議会軍が劣勢に。なぜか?軍費を調達する財政基盤を欠いていたから。
☆ここで新たな税金が登場するわけです。
議会:「査定課税」の導入
⇒一定の財源調達額を各地域に割り振り、財産の査定(評価)額に応じた課税を各戸に対して行うというもの。現代で言えば資産課税(相続税や固定資産税など)のことだと考えてよいと思います。この直接税は、後年のイギリス所得税の先駆けとなります。
査定課税は、徴税機構の不備もあり、とても公平課税とは言い難かった。また、地域的にはロンドンに負担が集中したこともあり、その不満を避けるために間接税の導入が検討されました。「内国消費税」のことです。
内国消費税:現代日本でいう消費税。査定課税が財産保有者に対する課税であったのに対して、内国消費税は生活必需品課税の色彩が強く、庶民も負担を強いられた。
内国消費税はあくまで戦争のための臨時課税であって、内戦が終わり次第廃止されるという説明があったが、現実には内戦後も国家財政の窮乏を救うため、むしろ課税対象を拡大し、恒久化された。
⇒イギリスの財政基盤の確立
・名誉革命へ
こうして財政基盤が整うと、次は軍備です。
1645年、イギリス議会は議会軍の再編強化を図った。→46年、議会軍は国王を降伏させて第1次内乱を終結→47年、国王を捕虜に→48年、第2次内乱も終結→49年、国王チャールズ1世も処刑
⇒これがピューリタン革命です。合わせて読むなら↓↓↓
その後、チャールズ2世による王政復古もあったが、失墜
⇒「権利章典」の原型である「権利宣言」が出された=名誉革命
名誉革命については↓↓↓
権利宣言の中身:国王の守るべき規範が13項目にわたって列記
☆税関係で重要なのは、「国王は議会の同意なしに課税しない」(租税協賛権)という項目
⇒議会(国民)による「租税協賛権」の獲得
⇒現代の税のあり方の原型が確立
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このように現代にみられる税のあり方は、戦争がキーポイントになっていたことがよくわかります。これはイギリスだけでなく、アメリカでも同じです。これについては改めて。
諸富徹『私たちはなぜ税金を納めるのか』新潮社、2013年