イギリス議会政治の誕生と名誉革命について
イギリスの議会政治と名誉革命について考えてみます
・イギリスの議会政治の誕生と名誉革命について
・クロムウェルという人は、1653年に終身の護国卿になって、
厳しい軍事的独裁体制を作った
※ただし、この体制には多くの国民の不満が出てきた
→そのため、クロムウェルが死んだ後、1660年に先王の子どもが
国王のチャールズ2世としてむかえられた
=これを王政復古という
※これは、絶対王政の復活ではなく、議会の復活だった
・チャールズ2世は専制的な姿勢を取って、カトリックの擁護をめざした
→すると、議会は1673年に審査法を制定して官吏を国教徒に限定し、
1679年に人身保護法を出して市民的な自由を保障した
・議会は立法府として活性化し始めていった
→1670年代の終わりには、トーリ党とホイッグ党という現在の2つの政党の起源となる
2つの党派が出てきた
※トーリ党・・国王の権威を重視する政党で、国教会を擁護して地主階級の利害を代表した
ホイッグ党・・議会の権利を主張する政党で、非国教徒や商工業者の立場にも配慮した
→両方の党も貴族・ジェントリが中心だった
・チャールズ2世の次の王にジェームズ2世という人が出てきた
→ジェームズ2世は、カトリックと絶対王政の復活をめざした
=そのため、1688年に議会はオランダ総督のウィレム3世という人を招いた
※ウィレム3世は、ジェームズの長女で新教徒であるメアリという人の夫だった
・ジェームズは抗戦をあきらめて亡命した
→そのため、2人は1689年に議会がまとめた権利の宣言を受け入れた
※この時に、2人はウィリアム3世とメアリ2世として、両方とも王位についた
=これを名誉革命という
→議会は、1689年の終わりに権利の宣言を権利の章典として制定した
※この権利の章典は、国民の生命、財産の保護などを定めたものだった
=ここに、議会主権にもとづく立憲王政が誕生した
→その後、議会の多数党が内閣を組織するという政党政治も徐々に定着していった
※ただし、当時選挙権を持っていたのは有産者層に限られたため、
国民の数パーセントだけだった
・1707年に、アン女王という人が治めていた
→その時に、イギリス(イングランド)とスコットランドが合同して、
大ブリテン王国になった
・アンが死んだ後、議会制定法にもとづいて遠縁にあたる
ドイツのハノーヴァー選帝侯が迎えられた
=ハノーヴァー選帝侯は、ジョージ1世としてハノーヴァー朝を始めた
※ハノーヴァー朝が、現在のウィンザー朝の基礎だと言われている
・1721年に、ホイッグ党のウォルポールという人が首相になった
→その後、責任内閣制が形成されていった
※責任内閣制・・内閣が議会に対してでなく、議会に責任を負うという制度のこと
※このころに、財政制度も整備され、イギリスが外国との戦争を遂行する能力が
急速に高まっていった
ポイント
・イギリスの議会政治の様子についておさえる
・名誉革命についておさえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
責任内閣制は、内閣が国王に対してでなくの誤りでは?