「原子論的・機械論的国家論」―納税は「権利」という考え方
タイトルで???となる人も多いかもしれません。自分なりにわかりやすくまとめてみますので、少々お付き合いくださいませ。
まず、本記事の「原子論的・機械論的国家論」を理解するためには、ホッブズとロック、デカルトを理解する必要があります。ホッブズ、ロックは↓↓↓、デカルトは本記事でも簡単に説明します。
「原子論的・機械論的国家論」は、19Cドイツの「有機的国家論」と比較するとより明確になるのですが、それについては改めてまとめるとして、本記事では「原子論的・機械論的国家論」に焦点を当てたいと思います。
・個人と国家のドライな関係
上記の関連記事では、もっぱらホッブズとロックの国家論に焦点を当ててきました。しかし、彼らの思想の意義は、「個人の析出」にもありました。
⇒個人が国家をつくるということ。逆に言えば、国家が死滅したとしても個人は残るという論理。こうしたイギリス的社会契約論=「原子論的・機械論的国家論」
もう少し説明します。
原子論的・機械論的国家論とは・・・
⇒原子(=個人)が結合して国家が生まれるという考え方。
個人と国家=要素と全体(部分と全体)の関係として捉えられる。ホッブズが強調したように、国家は何か神聖で不可侵なものではなく、人間(個人)によってつくられる人工物(機械)として捉えられる。つまり、国家は機械のアナロジー(類似)だから、外部から分析が可能であるということ(これまでは国家とは神聖不可侵なもので、分析不可能だとされていた)。
☆国家と個人は峻別され、両者は運命共同体ではなく、契約を介在させるドライな関係だということです。税との関係でいえば、個人は国家が生命と財産の保護という便益を提供する限りにおいて、その対価として税金を納めるが、国家がその便益を満たさないようであれば、ただちに税金を納めることを停止することができるということ。
ではなぜ、こうした原子論的・機械論的国家論が生まれたのでしょうか。その背景にいるのがデカルトです。
デカルト:ホッブズと同時代人で、近代哲学の父と呼ばれ、近代の新しい思想的パラダイムを生み出した。もっとも有名なのが「われ惟う、ゆえにわれ在り」です。
この「われ惟う、ゆえにわれ在り」というのが、近代的な「個人の析出」であった。
⇒「個(=原子)」と「全体」を峻別し対比する考え方。そして、この「個人の析出」を国家や社会の問題へと昇華させたのがホッブズやロックの社会契約論なのです。
☆これは中世的・封建的・キリスト教的な思想パラダイムから、近代的・合理的・科学的な思想パラダイムへの劇的な大転換でした。このあたりを合わせて読むと理解が深まると思います。↓↓↓
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以上のような原子論は、ある意味で近代民主主義と親和性を持っていました。また、「なぜ税金を納めるのか」という根本的な問いに対して、「自発的納税倫理」(国家が国民に提供する便益への対価)の観点から、一つの解答を見ることができます。こうした考え方によれば、納税=権利だと言うことができます。他方で、納税=義務という考え方が普及した国もあります。19Cドイツです。これは有機的国家論と関係してくるので、改めてまとめます。
諸富徹『私たちはなぜ税金を納めるのか』新潮社、2013年
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税金を全部消費税にまとめたら経済は…