家産国家から租税国家への移行―シュンペーターに沿って
以下はシュンペーター『租税国家の危機』に沿ったもので、家産国家から租税国家への移行について簡単にまとめています。家産国家と租税国家については↓↓↓
・近世領邦国家の領国経営
⇒最大の収入源は、自分の領地の農民から上がってくる貢納。当初は現物で納められていたようだが、13C以降は貨幣地代の形態をとるようになった。その他にも諸種の権利(造幣特権や関税特権、鉱山特権など)があった。
☆つまり、租税の一般的請求権はまったく存在せず、基本的にはこれらの諸収入で経常経費は賄われていたということです。しかし、14C・15Cにはこうした状況に危機が・・・
・領国経営の危機―14C、15C
危機の原因:①領国経営の管理手法の劣悪さ②宮廷の浪費③戦費の増大
⇒特に③が大きな原因だった
Ex.ハプスブルク家
⇒神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲していたハプスブルク家は、それまでの都市国家や領邦国家をはるかに上回る収入を自らの世襲領だけから取得していたのだが、これで雇うことができた歩兵の数は約6000人だったという。他方のオスマン帝国(トルコ)が戦場に派遣できた歩兵数は25万人だというから、まったく勝負にならないことがわかる。
さてどうするか。借金です。
当初は借金をきちんと返済できていたけれど、次第に返済できなくなってくると、領主は領内の最上級貴族家門を構成する「等族」に資金の供給(=租税)を頼み込むようになる。
※このような領主の頼み込む姿勢は、非常に謙遜した態度だったと言います。このような逼迫した状況になったのは自身の無力のせいだと認め、2度とこのようなことは繰り返さないと約束したそうです。
等族も、こうしたオスマン帝国の圧迫を領邦国家における「共同の困難」として、租税を認めました。
この租税は決して恒久的なものではなく、あくまで戦費の調達が目的でしたが、時が経つにつれてそれ以外の目的にも使われるようになり、国家の一般的な歳出を賄う財源として定着していきました。
☆こうした過程から、シュンペーターは「国家は『共同の困難』が生み出す財政需要から創成された」と結論付けています。
以上がシュンペーターの言う家産国家から租税国家への移行です。
シュンペーターの言う当時の「共同の困難」は戦争でしたが、これを現代的に捉えれば、貧困や格差というのが今日における「共同の困難」と言えるかもしれません。
シュンペーター『租税国家の危機』
諸富徹『私たちはなぜ税金を納めるのか』新潮社、2013年