フランスの戦争と共和政について
フランスの戦争と共和政について考えてみます
・フランスの戦争と共和政について
・1791年10月に、立法議会が開かれた
→立法議会では、立憲君主派とジロンド派の2つに分かれた
※・立憲君主派・・革命がこれ以上進まないことを願う派閥のこと
・ジロンド派・・大商人の利害を代表して共和政を主張する派閥のこと
・国内外で反革命の動きが活発になるということが起きた
→すると、共和政の勢力が増えた
※そして、1792年の春にはジロンド派が政権を握った
=結果的に、革命に敵対的なオーストリアに宣戦した
※オーストリアは、1791年8月に、オーストリアはプロイセンと共同で
ルイ16世の救援を各国に呼びかけていた
=この呼びかけを、ピルニッツ宣言という
・オーストリアへの宣戦の時、軍隊は士官に王党派が多く含まれていて戦意が欠けていた
※そのため、オーストリアとプロイセンの連合軍がフランス国内に侵入した
→この危機の時に、パリの民衆と全国から集まった義勇軍は、
1792年8月に王権を停止させた
=この出来事を8月10日事件という
※現在のフランスの国家である「ラ=マルセイエーズ」は、
当時の義勇軍によって歌われた軍歌に由来している
・1792年の9月に、新しく男性普通選挙による国民公会というのが成立した
※この時に、王政の廃止、共和政の樹立、などが宣言された
=これを、第一共和政という
※第一共和政が誕生する直前には、フランス軍が国境に近い小村のヴァルミー
というところで、プロイセン軍に初めて勝利した
・国民公会では、急進共和主義のジャコバン派という派閥が勢いを増してきた
※この裏で、1793年1月にルイ16世が処刑された
・当時イギリスの首相だったピットという人がいた
→ピットは、フランス軍がベルギー地方に侵入したのに対抗して
フランス包囲の大同盟を作った
=この同盟を、第1回対仏大同盟という
→この大同盟を作ったため、フランスは全てのヨーロッパを敵に回すことになった
※これに加えて、国内でも王党派が指揮をする農民反乱が広がっていった
・ジャコバン派は、国内外の危機を乗り切るために、以下のようなことを行った
→・1793年6月にジロンド派を議会から追放した
・都市の民衆や農民の支持を確保するための政策を採用した
※・男性普通選挙を定めた1793年憲法の制定(施行は延期)
・封建地代の無償廃止の確定
・亡命貴族たちから没収した土地(国有財産)の競売
・最高価格令による強力な価格の統制 など
・ロベスピエールという人を中心としたジャコバン派政権が成立した
・強大な権力を握る公安委員会が出来た
・徴兵制を実施した
・革命暦(共和暦)を制定した
※・反キリスト教の立場からグレゴリウス暦を否定したもの
・1792年9月22日(共和政樹立の日)が第1年第1日とされ、
1805年の終わりまで続いた
・理性崇拝の宗教を創始するなどの、急進的な施策を強行した
・一方で、反対派を多く処刑した
・恐怖政治を行った
→上のような政策は、外敵を撃退して対外的な危機が遠のくようになった時に、
小土地所有農民や、経済的な自由を求める市民層が保守化した
=そのため、独裁への不満が次第に高まっていった
※さらに、ロベスピエールはパリの民衆の支持も失って孤立した
=結果的に、1794年7月、テルミドールのクーデタというので、
ロベスピエールが権力を失って処刑された
ポイント
・フランスの戦争と共和政の様子と内容についておさえる
このあたりが今回のポイントです