ナポレオンによる大陸の支配について
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ナポレオンによる大陸の支配について考えてみます
・ナポレオンの大陸支配について
・1805年に、イギリス、ロシア、オーストリアなどが、第3回対仏大同盟が結成された
→1805年10月には、ネルソンという人が引き連れるイギリス海軍が、
フランス海軍をトラファルガーの戦いという戦いで破るということが起きた
・一方でナポレオンは、ヨーロッパ大陸でオーストリアとロシアの連合軍を
アウステルリッツの三帝会戦で破った
→その後1806年に、ナポレオン自身の保護のもとで、西南ドイツ諸国を合わせて
ライン同盟を結成した
※この時オーストリアの皇帝は、神聖ローマ帝国皇帝の地位を放棄して、帝国が消滅した
→さらにナポレオンは、プロイセンとロシアの連合軍を倒して、
1807年にティルジット条約を結ばせた
※この時に、ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてた
=結果的に、ナポレオンはヨーロッパ大陸のほとんどをその支配下に置いた
・また、ナポレオンは1806年にベルリンで大陸封鎖令というのを発した
→この令によって、様々な国にイギリスと通商することを禁止した
=この令によって、フランスの産業のために大陸の市場を独占しようとした
・ナポレオンは、自分の兄弟をスペイン王やオランダ王などの地位につけた
→その裏で、1810年にナポレオンは、オーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して
家門の地位を高めるなど、勢力がどんどん高まっていった
・ナポレオンは、封建的な圧政からの解放をかかげて征服していたため、
征服されていた土地では改革が促されていた
※一方では、外国の支配に反対して民族意識が成長していた
→そのため、外国で以下のようなことが起きた
・スペインが反乱を起こした
・プロイセンで、シュタインやハルデンベルクなどが農民解放などの改革を行った
=この改革をプロイセン改革と言い、後にプロイセンが
ドイツ統一の中心となる基礎だった
・ロシアで、大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出するということが起きた
→すると、ナポレオンは1812年に大軍を引き連れてロシアに遠征した
※しかし、この遠征は失敗に終わった
=この遠征の失敗をきっかけに、諸国が解放戦争に向かうようになった
→そのため、ライプチヒの戦い(諸国民戦争)という戦いでナポレオンを破る
ということが起きた
=その結果、1814年にパリを占領するということが起きた
・諸国民戦争の後、ナポレオンは退位してエルバ島に流された
→この後、ルイ16世の弟のルイ18世が王位についてブルボン朝が復活する
ということが起きた
・また、1815年の3月に、ナポレオンはパリに戻って皇帝として復活した
→しかし、6月にワーテルローの戦いでナポレオンが負けるということが起きた
=その結果、ナポレオンは南大西洋のセントヘレナ島に流された
※1815年にナポレオンがパリに入城してから、
ナポレオンが2度目の退位をするまでを、「百日天下」という
ポイント
・ナポレオンの大陸支配を中心とした動きをおさえる
・ナポレオンの衰退の流れをおさえる
このあたりが今回のポイントです