皇帝ナポレオンとその誕生について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/15 04:39      
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皇帝ナポレオンとその誕生について考えてみます

 

 

・ナポレオンの誕生について

 

 

 ・ジャコバン派が没落した後、穏健共和派が有力になるということが起きた

  →その後、1795年に制限選挙制を復活させた新しい憲法によって、

   5人の総裁を中心とした政府が誕生した

   =この政府を総裁政府という

 

 

 ・総裁政府の誕生後も、社会不安は続いた

  ※代表的な例に、1796年5月に、私有財産の廃止を提唱して政府の転覆を計画した

   バブーフという人などが逮捕された、という出来事がある

   

  →社会不安に対し、革命ですでに利益を得た有産市民層や農民が社会の安定を願った

   =そこで、混乱を鎮める力を持った軍事の指導者として、

    ナポレオン=ボナパルトという人に期待をかけた

 

 

 

 ・ナポレオンは、以下のようなことを行った

  →・1796年に、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破った

    →破ったことで、軍隊と国民のあいだで名声を高めていった

   ・1798年に、敵国であるイギリスとインドの連絡を断つ目的で、エジプトに遠征した

    ※ロゼッタ=ストーンは、エジプト遠征中の1799年に発見された

 

 

 

 ・1799年に、イギリスがロシアやオーストリアなどと

  第2回対仏大同盟を結ぶということが起きた

  →すると、第2回対仏大同盟が、フランス国境を脅かし、総裁政府が

   国民の支持を失うということが起きた

   =そこで、エジプト遠征から帰国したナポレオンは、以下のようなことを行った

    ・1799年11月に総裁政府を倒した

    ・3人の統領からなる統領政府を作った

    ・ナポレオン自身が第一統領として事実上の独裁権を握った

     ※これら一連の出来事を、ブリューメル18日のクーデタという

      =このクーデタの結果、10年間に及んだフランス革命が終了した

 

 

 

 ・ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と、1801年に和解した

  →1802年に、イギリスとも講和した

   ※このイギリスとの講和を、アミアンの和約という

   =上のような講和によって、国の安全を確保した

 

 ・ナポレオンは、内政の面で以下のようなことを行った

  →・フランス銀行を作って、財政の安定をはかった

   ・商工業を振興した

   ・公教育の制度を誕生させた

   ・1804年3月に、革命の成果を定着させる民法典(ナポレオン法典)を公布した

    ※ナポレオン法典の内容

     →・私有財産の不可侵

      ・法の前の平等

      ・契約の自由  など

 

 ・ナポレオンは、1802年に終身統領になった

  →その後、ナポレオンは1804年の5月に、国民投票で圧倒的な支持をうけて、

   皇帝に即位した

   ※この時にナポレオンは、ナポレオン1世と称するようになった

    =この時に誕生した政治体制を、第一帝政という

      

 

ポイント

・ナポレオンの概要をおさえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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