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	<title>アラエス &#187; イエズス会</title>
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	<item>
		<title>中世からのルネサンスと宗教改革の流れと動き</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2488</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/2488#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 11 Feb 2014 05:03:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[コイングラム]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代ヨーロッパ史初期]]></category>
		<category><![CDATA[イエズス会]]></category>
		<category><![CDATA[カトリック]]></category>
		<category><![CDATA[カルヴァン]]></category>
		<category><![CDATA[プロテスタント]]></category>
		<category><![CDATA[ルター]]></category>
		<category><![CDATA[ルネサンス]]></category>
		<category><![CDATA[ローマ＝カトリック]]></category>
		<category><![CDATA[三大発明]]></category>
		<category><![CDATA[宗教改革]]></category>
		<category><![CDATA[対抗宗教改革]]></category>

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		<description><![CDATA[※中世までのヨーロッパ文化・・ローマ＝カトリック教会の影響が強かった →しかし、中世末期に教会の権威が衰えた ＝その結果、神に仕える生き方から、人間の個性や自由を求める考え方が生まれた ※個性や自由を求める考えのベースは [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2488">中世からのルネサンスと宗教改革の流れと動き</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>※中世までのヨーロッパ文化・・<strong>ローマ＝カトリック教会</strong>の影響が強かった</p>
<p>→しかし、中世末期に<strong>教会の権威が衰えた</strong></p>
<p>＝その結果、神に仕える生き方から、<strong>人間の個性や自由を求める考え方</strong>が生まれた</p>
<p>※個性や自由を求める考えのベースは、<strong>古代ギリシア・ローマ文化</strong>だった</p>
<p>→このように、古代文化を復興させ、自分たちの生き方に役立てようとした運動を<strong>ルネサンス</strong>という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ルネサンスによって、以下のようなことが起きた</p>
<p>・<strong>レオナルド＝ダ＝ヴィンチ</strong>や<strong>ミケランジェロ</strong>などの芸術家が出てきた</p>
<p>・<strong>三大発明</strong>（火薬、羅針盤、活版印刷）が誕生した</p>
<p>※火薬（火砲）・・剣で戦う騎士の没落をはやめた</p>
<p>※羅針盤・・海外への進出を容易にした</p>
<p>※活版印刷術・・聖書の普及をはやめ、宗教改革に貢献した（<strong>グーテンベルク</strong>）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ルネサンスが最盛期を迎えた時に、ドイツで<strong>ルター</strong>の<strong>宗教改革</strong>が始まった</p>
<p>※ルターは、<span style="text-decoration: underline">贖宥状（信者の罪を免除する証書）と教皇の権威を否定</span>して、<strong>聖書だけ信仰すること</strong>を求めた</p>
<p>→ルターの動きに対して、教会の権力に不満を持っていた諸侯や民衆も、聖書で社会を変えようとした（<strong>プロテスタント</strong>）</p>
<p>※ただしルターは、人々の急激な運動を否定したため、民衆の急激な運動を武力でおさえつけた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、<strong>カルヴァン</strong>という人が、スイスで宗教改革を始めた</p>
<p>→カルヴァンは<strong>予定説</strong>を提唱し、富を蓄積することを肯定した</p>
<p>※予定説・・魂が救われるかどうかは、前もって定められているという考え方のこと</p>
<p>＝この予定説をもとに、禁欲的に労働を行うことが神の意志にかなうと考えた</p>
<p>※予定説は、西欧の商工業者に受け入れられた</p>
<p>※西欧の商工業者は、富を蓄えることを教会から非難されていたために、蓄財を認める予定説を支持した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>宗教改革に対して、ローマ＝カトリック教会は自分たちの動きを反省した</p>
<p>→その後、教会が教皇の権威を再確認した</p>
<p>＝その結果、聖職者の規律を正して、宗教改革の普及を食い止めようとした（＝<strong>対抗宗教改革</strong>）</p>
<p>※対抗宗教改革のために、<strong>イエズス会</strong>という組織が作られた</p>
<p>→イエズス会は、世界各地で布教活動を行って、カトリックの信仰を普及させた</p>
<p>※この布教活動はアジアにも広がった</p>
<p>→そのため、1549年には<strong>フランシスコ＝ザビエル</strong>が日本で布教を始めた</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2488">中世からのルネサンスと宗教改革の流れと動き</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>豊臣秀吉の海外の政策と朝鮮の侵略について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1189</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1189#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 23 Oct 2013 19:06:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[世界は仲間]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[戦国時代・安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[26聖人殉教]]></category>
		<category><![CDATA[イエズス会]]></category>
		<category><![CDATA[キリシタン大名]]></category>
		<category><![CDATA[サン＝フェリペ号事件]]></category>
		<category><![CDATA[バテレン追放令]]></category>
		<category><![CDATA[慶長の役]]></category>
		<category><![CDATA[文禄の役]]></category>
		<category><![CDATA[朝鮮侵略]]></category>
		<category><![CDATA[海賊取締令]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>

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		<description><![CDATA[豊臣秀吉の海外の政策と朝鮮の侵略について考えてみます &#160; &#160; ・豊臣秀吉のキリスト教に対する動きについて &#160; 　・豊臣秀吉は、最初はキリスト教を布教することを認めていた 　　→しかし、１５８ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1189">豊臣秀吉の海外の政策と朝鮮の侵略について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>豊臣秀吉の海外の政策と朝鮮の侵略について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・豊臣秀吉のキリスト教に対する動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・豊臣秀吉は、最初はキリスト教を布教することを認めていた</p>
<p>　　→しかし、１５８７年にキリシタン大名だった大村純忠という人が</p>
<p>　　　長崎をイエズス会の教会に寄付していることが分かった</p>
<p>　　　＝このことによって、豊臣秀吉は以下のようなことを行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・豊臣秀吉が行ったこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→・大名がキリスト教の信者になることを許可制にした</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・バテレン（宣教師）追放令を出した</p>
<p>　　　　＝この法律によって、宣教師を国外に追放しようとした</p>
<p>　　　　　※・この時、キリスト教に残っていた高山右近という人は、領地を取り上げられた</p>
<p>　　　　　　・一般人が信仰するかどうかは、「その者の心次第」</p>
<p>　　　　　　　ということで、禁止しなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・１５８８年に海賊取締令を出した</p>
<p>　　　　※海賊取締令・・倭寇を始めとした海賊の行為を禁止する法律のこと</p>
<p>　　　　　→この法律には、海上の支配をより確実なものにすると同時に、</p>
<p>　　　　　　貿易を推奨する狙いがあった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※キリスト教は、貿易と一緒に布教されていたので、</p>
<p>　　　　キリスト教の取り締まりは徹底できなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・１５９６年に、土佐に着いたスペイン船のサン＝フェリペ号の乗組員が、</p>
<p>　　　　「スペインが領土を拡大するために宣教師を利用している」と証言する</p>
<p>　　　　という出来事が起きた</p>
<p>　　　　＝この出来事を、サン＝フェリペ号事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→豊臣秀吉は、サン＝フェリペ号事件を知って、宣教師とキリスト教の信者２６人を</p>
<p>　　　　捕まえて、長崎で処刑した</p>
<p>　　　　＝この出来事を、２６聖人殉教という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・豊臣秀吉の東アジアとの関係について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６世紀後半に、明の力が衰退していったため、</p>
<p>　　中国を中心とする東アジアの体制というものが崩れた</p>
<p>　　→そこで、豊臣秀吉が全国を統一したこともあって、</p>
<p>　　　豊臣秀吉は日本を中心とした東アジアの体制を作ろうとした</p>
<p>　　　＝そのため、ポルトガル、スペイン、台湾などに対して、</p>
<p>　　　　日本に服属すること、入貢すること、などを要求した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・さらに、１５８７年に日本は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対して、日本へ入貢させること、</p>
<p>　　明へ出兵することを要求したが、朝鮮は拒否した</p>
<p>　　　→そこで、朝鮮に要求を飲ませるために、豊臣秀吉は肥前の名護屋という場所を</p>
<p>　　　　拠点にして、１５９２年に約１５万の軍隊を朝鮮に送った</p>
<p>　　　　＝この出来事を、文禄の役と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※文禄の役について</p>
<p>　　　　・日本は、鉄砲を使って漢城（現在のソウル）と平壌（現在のピョンヤン）を占領した</p>
<p>　　　　・しかし、李舜臣という人を中心とした軍と、明の朝鮮への援軍によって</p>
<p>　　　　　日本側が不利になった</p>
<p>　　　　　→そこで、朝鮮にいた日本軍は休戦して、豊臣秀吉に</p>
<p>　　　　　　明と和解してもらう事を要求した</p>
<p>　　　　　　＝結果的に、豊臣秀吉が強気な姿勢を取り続けたので、</p>
<p>　　　　　　　交渉は上手く行かなかった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　　　※１５９３年から和平交渉というものが始まったが、</p>
<p>　　　　　　　和平を早くしてほしかった日本軍は、明側に豊臣秀吉の要求を伝えない、</p>
<p>　　　　　　　という行動をとった</p>
<p>　　　　　　　→結局、１５９６年に明が日本に使いを送ったものの、</p>
<p>　　　　　　　　交渉は上手くいかなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・さらに、１５９７年に豊臣秀吉が朝鮮に約１４万の軍隊を送った</p>
<p>　　＝この出来事を、慶長の役と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※慶長の役について</p>
<p>　　　　・この戦いの時は、最初から日本が苦戦を強いられた</p>
<p>　　　　・慶長の役の次の年に豊臣秀吉が病気で亡くなった</p>
<p>　　　　　→そこで、日本軍はすぐに撤退した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　＝文禄の役と慶長の役を含めた、日本の行動を朝鮮侵略と呼ぶことがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→朝鮮侵略は、朝鮮側にも日本側にも多くの被害が出たため、</p>
<p>　　　豊臣政権が衰退していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・豊臣秀吉のキリスト教に対する動きを押さえる</p>
<p>・豊臣秀吉の東アジアと朝鮮に対する動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1189">豊臣秀吉の海外の政策と朝鮮の侵略について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>キリスト教と南蛮貿易について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1185</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1185#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 23 Oct 2013 18:32:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[世界は仲間]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[戦国時代・安土桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[イエズス会]]></category>
		<category><![CDATA[キリシタン大名]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[グレゴリウス13世]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ＝ザビエル]]></category>
		<category><![CDATA[ヴァリニャーニ]]></category>
		<category><![CDATA[南蛮貿易]]></category>
		<category><![CDATA[天正遣欧使節]]></category>
		<category><![CDATA[宣教師]]></category>
		<category><![CDATA[種子島時尭]]></category>

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		<description><![CDATA[キリスト教と南蛮貿易について考えてみます &#160; &#160; ・南蛮貿易とキリスト教について &#160; 　 　・南蛮貿易までの流れについて &#160; 　　・１５４３年に、ポルトガル人を乗せた中国人倭寇とい [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1185">キリスト教と南蛮貿易について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>キリスト教と南蛮貿易について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・南蛮貿易とキリスト教について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・南蛮貿易までの流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・１５４３年に、ポルトガル人を乗せた中国人倭寇という船が</p>
<p>　　　九州の南にある種子島という島に着いた</p>
<p>　　　※この時に種子島に来た人が、日本に初めてきたヨーロッパ人だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・種子島のトップだった種子島時尭という人は、ポルトガル人が持っていた鉄砲を買って、</p>
<p>　　　自分の家臣に鉄砲の使い方と作り方を勉強させた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この流れがあってから、ポルトガル人は毎年九州に来て、日本との貿易を行うようになった</p>
<p>　　→さらに、スペイン人が１５８４年に肥前の平戸という場所に来て、日本との貿易を始めた</p>
<p>　　　＝当時の日本は、ポルトガル人とスペイン人を南蛮人と呼んでいたため、</p>
<p>　　　　この時の貿易を南蛮貿易と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・南蛮貿易について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・南蛮人は、中国の生糸、火薬、鉄砲などを日本に持ってきた</p>
<p>　　・一方で日本は、銀などを南蛮人に提供した</p>
<p>　　　※貿易は、平戸、豊後府内（現在の大分）、長崎などで行われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※南蛮貿易によって、日本はどのように変わったのか</p>
<p>　　　→・鉄砲が新しい有力な武器として、戦国大名の中で流行った</p>
<p>　　　　・鉄砲の普及によって、足軽鉄砲隊という軍隊が作られるようになり、</p>
<p>　　　　　今までの騎馬戦を中心とした戦い方が変わるようになった</p>
<p>　　　　・鉄砲が普及したことで、防御のための施設としての城の構造を</p>
<p>　　　　　鉄砲向けに変えることになった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　</p>
<p>　　・南蛮貿易は、キリスト教を布教する活動と同時に行われた</p>
<p>　　　→日本では、１５４９年にイエズス会の宣教師だったフランシスコ＝ザビエル</p>
<p>　　　　という人が鹿児島に来て、大内義隆や大友義鎮などの大名に保護されて布教を始めた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　※当時のヨーロッパでは、宗教改革が原因でプロテスタントの勢いが活発だったが</p>
<p>　　　　　カトリックも勢いを取り戻そうとして、修道会というところが</p>
<p>　　　　　アジアで布教しようとしていた</p>
<p>　　　　　→修道会の一つがイエズス会であり、当時の日本では</p>
<p>　　　　　　キリスト教をキリシタンと呼んでいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・宣教師は何度も日本に来て、南蛮寺やコレジオ、セミナリオなどと呼ばれる</p>
<p>　　　建物を作って、布教を目指した</p>
<p>　　　※ザビエルの後に、ガスパル＝ヴィレラやルイス＝フロイスなどの人達が布教を行い</p>
<p>　　　　キリスト教が広まっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・当時、ポルトガル船はキリスト教の布教を認めた大名の領の港に入っていったため、</p>
<p>　　　大名は、貿易と宣教師の活動の２つを保護することを行った</p>
<p>　　　※このように、キリスト教に積極的だった大名を、キリシタン大名という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※キリシタン大名のうち、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠の３人の大名は、</p>
<p>　　　　イエズス会の宣教師だったヴァリニャーニという人の進めによって、</p>
<p>　　　　１５８２年に少年使節をローマ教皇のところに派遣した</p>
<p>　　　　＝この時に派遣した少年使節を、天正遣欧使節という</p>
<p>　　　　　→天正遣欧使節として、伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、</p>
<p>　　　　　　中浦ジュリアンの４人の少年が派遣され、ローマの教皇だった</p>
<p>　　　　　　グレゴリウス１３世に会って、１５９０年に帰ってきた　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・戦国時代時のヨーロッパの動きを押さえる</p>
<p>・南蛮貿易とキリスト教の動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1185">キリスト教と南蛮貿易について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>対抗宗教改革について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/922</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/922#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 11:28:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[アルコール]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代ヨーロッパ史初期]]></category>
		<category><![CDATA[イエズス会]]></category>
		<category><![CDATA[イグナティウス＝ロヨラ]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ＝ザビエル]]></category>
		<category><![CDATA[大航海時代]]></category>
		<category><![CDATA[宗教改革]]></category>
		<category><![CDATA[宗教裁判所]]></category>
		<category><![CDATA[対抗宗教改革]]></category>
		<category><![CDATA[禁書目録]]></category>
		<category><![CDATA[魔女狩り]]></category>

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		<description><![CDATA[対抗宗教改革について考えてみます &#160; &#160; ・対抗宗教改革について &#160; &#160; 　・宗教改革が進んでいる時に、カトリック教会では、教義を明確にすることと 　　内部の改革を通じて、勢力を建 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/922">対抗宗教改革について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>対抗宗教改革について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・対抗宗教改革について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宗教改革が進んでいる時に、カトリック教会では、教義を明確にすることと</p>
<p>　　内部の改革を通じて、勢力を建て直そうとした</p>
<p>　　＝この動きのことを対抗宗教改革（反宗教改革）という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・対抗宗教改革として、以下のようなことを行った</p>
<p>　　→・１５４５年からトリエントで開かれた公会議で、教皇の至上権を再確認するとともに、</p>
<p>　　　　腐敗の防止をはかった</p>
<p>　　　・禁書目録を作った</p>
<p>　　　・宗教裁判所を強化して思想の統制を行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・また、１５３４年にスペインのイグナティウス＝ロヨラという人が</p>
<p>　　フランシスコ＝ザビエルなどと同志を作った</p>
<p>　　→そこで、教皇の許可を受けたイエズス会（ジェズイット教団）は、厳格な規律と組織のもとに、</p>
<p>　　　ヨーロッパだけでなく、海外でも積極的な宣教・教育活動を繰り広げた</p>
<p>　　　＝この動きは、カトリック教会の勢力の回復に貢献したと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→この結果、以下のようなことも起きた</p>
<p>　　　・南ヨーロッパへの新教の進出は阻まれた</p>
<p>　　　・南ドイツの多くの地域が新教徒から奪回された</p>
<p>　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※海外でのカトリックの布教活動は、「大航海時代」の世界的通商・植民活動と</p>
<p>　　密接なつながりを持っていた</p>
<p>　　→ザビエルが１５４９年に日本に来たのも、その一環だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・対抗宗教改革によって、旧教徒と新教徒の対立がいちだんと激しくなった</p>
<p>　　＝その結果、ヨーロッパの各地で宗教戦争が起こった</p>
<p>　　　→このような社会的な緊張が高まった中で、「魔女狩り」が盛んに行われた地域もあった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※魔女狩りについて</p>
<p>　　　・悪魔の手先として魔術を行うとの疑いをかけられたものに対する激しい迫害のこと</p>
<p>　　　・異端迫害の立場を取った</p>
<p>　　　・ヨーロッパでは、１６世紀から１７世紀が最盛期だった</p>
<p>　　　・魔女狩りによって、１０万人以上と言われる人々が殺された</p>
<p>　　　・犠牲者の大半が女性だったが、なかには男性も含まれた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・対抗宗教改革の内容と流れについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/922">対抗宗教改革について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>清の時代の社会と文化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/890</link>
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		<pubDate>Sun, 13 Oct 2013 20:58:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近世・近代アジア史前期]]></category>
		<category><![CDATA[イエズス会]]></category>
		<category><![CDATA[シノワズリ]]></category>
		<category><![CDATA[典礼問題]]></category>
		<category><![CDATA[南洋華僑]]></category>
		<category><![CDATA[地丁銀制]]></category>
		<category><![CDATA[清]]></category>
		<category><![CDATA[考証学]]></category>
		<category><![CDATA[顧炎武]]></category>
		<category><![CDATA[黄宗羲]]></category>

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		<description><![CDATA[清の時代の社会と文化について考えてみます &#160; &#160; ・清の社会と文化について &#160; &#160; 　・三藩の乱の鎮圧と、台湾の占領によって清朝の支配が安定した 　　→すると、清朝は海禁をやめ、中 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/890">清の時代の社会と文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>清の時代の社会と文化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・清の社会と文化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・三藩の乱の鎮圧と、台湾の占領によって清朝の支配が安定した</p>
<p>　　→すると、清朝は海禁をやめ、中国商人の帆船交易やヨーロッパ船の来航を通して、</p>
<p>　　　海上貿易が順調に発展した</p>
<p>　　→また、生糸や陶磁器、茶などの輸出によって中国には銀が流れ込んで、</p>
<p>　　　国内商業の発展を支えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※東南アジアとの貿易を行う福建や広東の人々は、清朝の禁令をおかして</p>
<p>　　　東南アジアに住み着いた</p>
<p>　　　→そして、農村と国際市場を結ぶ商業網を握って経済力をのばし、</p>
<p>　　　　後の南洋華僑のもとにもなった</p>
<p>　</p>
<p>　　→１８世紀のなかばに、乾隆帝はヨーロッパ船の来航を広州１港に制限し、</p>
<p>　　　公行という特定の商人組合に貿易を管理させた</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８世紀には政治が安定していて、中国の人口が急増した</p>
<p>　　→アメリカ大陸から来たとうもろこしやサツマイモなど、山地でも栽培できる新しい作物は、</p>
<p>　　　山地の開墾を促して人口の増加にさらに影響を与えていった</p>
<p>　　　※しかし、相対的に土地が不足し、結果的に多くの土地なし農民を生み出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→税制では、１８世紀の初めに地丁銀制という制度により、丁税（人頭税）が</p>
<p>　　　土地税に繰り込まれて、制度を簡単にする方向に向かった</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・清の時代の文化は落ち着いた繊細さを見せていたと言われている</p>
<p>　　※清の前の明代後期は、動乱期を反映したダイナミックな文化だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→明と清との混乱を経験した顧炎武や黄宗羲などの清の初期の学者は、</p>
<p>　　　以下のようなことを考えた</p>
<p>　　　・社会秩序を回復するために、現実を離れた空論を議論しても仕方がない</p>
<p>　　　・社会秩序の回復のためには、事実にもとづく実証的な研究が必要だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→実証を重視する考え方は、清の時代の中期学者に受け継がれた</p>
<p>　　　＝その結果、考証学（儒学の経典の校訂や言語学的研究を精密に行う学問）が発展した</p>
<p>　　　　※この時に、銭大昕などの学者が出てきた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→清代中期の長編小説も、細密で筆致な上流階級や士大夫たちの生活を描写している</p>
<p>　　　※代表的な作品に、「紅楼夢」や「儒林外史」などがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・清朝は、イエズス会の宣教師を技術者として使った</p>
<p>　　※代表的な例として、以下のような人がいる</p>
<p>　　　・アダム＝シャール（湯若望）やフェルビースト（南懐仁）・・暦の改定を行った</p>
<p>　　　・ブーウェ（白進）・・中国全図である「皇輿全覧図」の作成に協力した</p>
<p>　　　・カスティリオーネ（郎世寧）・・ヨーロッパの画法を紹介したり、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　円明園の設計に加わったりした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→イエズス会の宣教師は、布教の時に中国の文化を重視した</p>
<p>　　　※そのため、信者に孔子の崇拝や祖先の祭祀などを認めた</p>
<p>　　　　＝しかし、これに反対する他の派閥の宣教師がローマ教皇に訴えたため、</p>
<p>　　　　　典礼問題というのが起こった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→教皇はイエズス会宣教師の布教方法を否定した</p>
<p>　　　＝そのため、この否定に反発した清朝は、雍正帝の時期にキリスト教の布教を禁止した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宣教師たちによってヨーロッパに伝えられた儒教や科挙などの</p>
<p>　　中国の思想や制度、造園術などの文化は、ヨーロッパ人の間に中国に対する興味を呼び起こした</p>
<p>　　※１８世紀の啓蒙思想の間では、中国と比較してヨーロッパの国家体制の優劣が論じられた</p>
<p>　　※芸術のうえでもシノワズリ（中国趣味）が流行した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・清の後期の社会と文化についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
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