西アジアの民族運動について
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西アジアの民族運動について考えてみます
・西アジアの民族運動について
・東方問題は、西アジアの国々の民衆に民族の自覚を促した
※この時に、イスラーム教徒としての連帯の必要性が自然と感じられた
※東方問題・・ヨーロッパの国々の進出と領土の分割をめぐる争いのこと
・アフガーニーという人が、各地で民族主義とパン=イスラーム主義を考えた
→この考え方は、エジプトのウラービー運動や、
イランのタバコ=ボイコット運動に大きな影響を与えた
・オスマン帝国では、アプデュル=ハミト2世という人が憲法を停止した
→これに加えて、パン=イスラーム主義政策を実施することで、
オスマン帝国の体制を維持しようとした
・一方で、1878年の憲法の停止に、オスマン帝国の青年たちが不満を抱いていた
→そこで青年たちは、スルタンの専制政治に反対して1889年に「青年トルコ」
(統一と進歩委員会)を結成した
→そして、青年トルコは首都に進み、1908年に政府にせまってミドハト憲法を
復活させて政権を握った
=この出来事を、青年トルコ革命という
※しかし、その後は国内外の状況の変化にともなって、内閣も変化していった
→そのため、不安的な政治のもとで、国内の世論も分裂していった
・イランでは、当時はカージャール朝が治めていた
→その時イランは、19世紀の終わりから、アフガーニーの呼びかけに応える形で、
イギリスが持っているタバコなどの利権に抵抗するタバコ=ボイコット運動という運動が
展開されていた
※この運動によって、イラン人の民族意識が高まると同時に、
専制を批判する立憲運動が起こった
=その結果、1906年に立憲革命が起きた
※しかし、その後にイランに、イランの分割を狙うイギリスとロシアが介入した
→中でも、1911年にイランに軍を進めたロシアが、武力によって議会を閉鎖させた
ポイント
・西アジアの民族運動の様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです