西アジアの民族運動について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/17 15:38      
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西アジアの民族運動について考えてみます

 

 

・西アジアの民族運動について

 

 

 ・東方問題は、西アジアの国々の民衆に民族の自覚を促した

  ※この時に、イスラーム教徒としての連帯の必要性が自然と感じられた

  ※東方問題・・ヨーロッパの国々の進出と領土の分割をめぐる争いのこと

 

 

 ・アフガーニーという人が、各地で民族主義とパン=イスラーム主義を考えた

  →この考え方は、エジプトのウラービー運動や、

   イランのタバコ=ボイコット運動に大きな影響を与えた

 

 

 ・オスマン帝国では、アプデュル=ハミト2世という人が憲法を停止した

  →これに加えて、パン=イスラーム主義政策を実施することで、

   オスマン帝国の体制を維持しようとした

   

 

 ・一方で、1878年の憲法の停止に、オスマン帝国の青年たちが不満を抱いていた

  →そこで青年たちは、スルタンの専制政治に反対して1889年に「青年トルコ」

   (統一と進歩委員会)を結成した

  →そして、青年トルコは首都に進み、1908年に政府にせまってミドハト憲法を

   復活させて政権を握った

   =この出来事を、青年トルコ革命という

 

   ※しかし、その後は国内外の状況の変化にともなって、内閣も変化していった

    →そのため、不安的な政治のもとで、国内の世論も分裂していった

 

 

 

 

 

 ・イランでは、当時はカージャール朝が治めていた

  →その時イランは、19世紀の終わりから、アフガーニーの呼びかけに応える形で、

   イギリスが持っているタバコなどの利権に抵抗するタバコ=ボイコット運動という運動が

   展開されていた

   ※この運動によって、イラン人の民族意識が高まると同時に、

    専制を批判する立憲運動が起こった

    =その結果、1906年に立憲革命が起きた

 

   ※しかし、その後にイランに、イランの分割を狙うイギリスとロシアが介入した

    →中でも、1911年にイランに軍を進めたロシアが、武力によって議会を閉鎖させた

 

 

ポイント

・西アジアの民族運動の様子についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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