ヨーロッパの東西分裂について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/18 01:30      
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ヨーロッパの東西分裂について考えてみます

 

 

・ヨーロッパの東西分裂について

 

 

 ・西ヨーロッパと東ヨーロッパの国々は、戦前からの政治や経済の構造を引き継いで、

  以下のような戦後の再建を行った

   

  →・イギリスは、1945年7月の選挙で労働党が勝利し、チャーチルに代わって

    アトリーという人が出てきた

    →アトリーは、重要産業の国有化と広い範囲での社会福祉制度の確立を行った

     ※イギリス連邦から離脱したエールは、1949年にアイルランド共和国になった

 

   ・フランスは、1946年10月に新しい憲法が成立し、第四共和政が発足した

 

   ・イタリアは、1945年の終わりから、キリスト教民主党が政権を担当した

    →そして、1946年の国民投票の結果、王政が廃止されて共和政になった

 

    ※フランスとイタリアでは、共産党が勢力を伸ばしていた

 

 

 

 

 ・東ヨーロッパやバルカン地域では、大戦中に徹底的に破壊されたり、

  枢軸国側の一員になった国が多かった

  ※そのため、この地域での改革は第二の建国と言われるほど徹底したものだった

   →ただし、改革の時にソ連が自分の国の安全保障を確保することを考えたため、

    ソ連に友好的な政権を作ることを強く求めた

    =そのため、ほとんどの国ではソ連の後押しをうけた

     共産党の主導で改革が行なわれた

 

 ・ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、アルバニアは、

  ソ連型の人民民主主義にもとづく社会主義を採用し、

  土地改革と計画経済による工業化を進めていった

  ※しかし、ユーゴスラヴィアは、ティトーという人を中心とした抵抗運動によって

   自力解放に成功した

   →そのため、ユーゴスラヴィアはソ連に対して自立的な姿勢を取り、

    1948年にコミンフォルムから除外されて、独自の道を進んでいった

 

 

 

 

 →上のような、フランスやイタリアでの共産党の躍進や、東欧地域へのソ連の急速な進出は、

  アメリカや西ヨーロッパの国々のソ連に対する警戒感を強めていった

  ※しかし、その裏でソ連は、社会主義の勢力の拡大を進めていた

   =そのため、アメリカや西ヨーロッパの国々と、ソ連などとの溝が、

    東西対立に広がっていった

 

   ※1946年に、イギリスの全首相のチャーチルは、ソ連がバルト海からアドリア海まで

    「鉄のカーテン」を降ろしていると語り、ソ連への不信感を示したと言われている

 

 

 

 

 ・1947年3月に、アメリカ合衆国はギリシアとトルコへの共産主義の進出を阻止した

  →この阻止に加えて、トルーマン=ドクトリンを宣言することで、

   ギリシアとトルコへの援助を始めた

   ※トルーマン=ドクトリン・・ソ連の拡大に対抗する封じ込め政策のこと

 

 ・また、ヨーロッパの国々の経済的な困難が、共産党を拡大させる原因だと考えた

  →そこで、1947年6月に、アメリカのマーシャル国務長官が

   マーシャル=プランを発表した

   ※マーシャル=プラン・・ヨーロッパ経済復興援助計画のこと

 

   →西ヨーロッパの国々は、マーシャル=プランを受け入れたが、

    ソ連と東欧の国々はこれを拒否した

    =そこで、ソ連と東欧は、1947年9月に各国の共産党の情報交換機関として、

     コミンフォルム(共産党情報局)を結成することで対抗した

 

 ・1949年1月に、ソ連が東欧6カ国との間にCOMECON(コメコン)を作り、

  社会主義の国々の結束を目指した

  ※コメコンについて

   ・コメコン・・ソ連と東欧6カ国との間の経済相互援助会議のこと

   ・東欧6カ国とは、アルバニア、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、

    ポーランド、ルーマニアを指す

   ・1950年に東ドイツが、1962年にモンゴルが参加した

   ・1972年にキューバが、1978年にベトナムが参加した

   ・アルバニアは1961年以降に事実上脱退した

 

 ・1948年2月に、東西漢で独自の地位を守ろうとしたチェコスロヴァキアで

  クーデタが起きた

  →このクーデタの時に、共産党が実権を握ったため、西ヨーロッパの国々の

   ソ連に対する不信感が一層強まった

 

 ・1949年3月に、西ヨーロッパの5カ国間で、

  西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)が結ばれた

  ※ここでの5カ国は、イギリス、フランス、

   ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を指す

   →この後、1949年4月に、西側12カ国が

    北大西洋条約機構(NATO)を結成した

    =そして、武力の侵略に対しては、共同で防衛することになった

 

 

 

 ・東西の対立が激しくなると、ドイツをアメリカ、イギリス、フランスの管理地区と

  ソ連の管理地区に分けた

  →さらに、1948年6月に、ソ連は西側の管理地区の通貨改革に反対して、

   共同で管理してた西ベルリンへの水陸連絡路を封鎖した

   =この出来事を、ベルリン封鎖という

 

  →この動きに対して、西側の3国は生活必需品を空輸することで対抗した

   ※そのため、ベルリン封鎖は1945年5月に解かれた

    =結果的に、西側管理地区はボンを首都とする

     ドイツ連邦共和国(西ドイツ)になった

  

   ※ドイツ連邦共和国は、キリスト教民主同盟のアデナウアー首相の指導によって、

    西側の一員となって経済復興に成功した

    →さらに、1954年のパリ協定で主権を回復した

 

  →一方で、ソ連の管理地区も1949年に、社会主義統一党を中心に

   東ベルリンを首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立を宣言した

 

   =この流れの結果、ドイツの分立が完全に決定した

 

 

  ※ただし、オーストリアは、1955年にアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の

   占領4国と国家条約を結んだ

   =その結果、オーストリアは中立国として独立を回復した

   

 

ポイント

・戦後の各国の動きについておさえる

・東西の分断までの流れについておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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コメント

  • : 2014/10/5(日) 22:55:17 | くろうぇ | 返信する

    ベルリン封鎖の解除の年号が・・・

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