東アジアと東南アジアの分断について
東アジアと東南アジアの分断について考えてみます
・東アジアと東南アジアの分断について
・中国は戦後、5大国の一員としての地位を認められた
※しかし、国内では第二次大戦の末期から、国民党と共産党の戦いが復活した
→蒋介石は1948年に総統になったが、国民党幹部の腐敗、激しいインフレによる
経済の混乱などで、民衆から批判された
→共産党はこの間に、農村で土地の改革を実行して農民を支持を得た
※支持を得た後に、1947年から反攻に出た
→その後、国民党軍が負けを重ねたため、1949年12月に蒋介石が台湾に逃げ、
台湾で中華民国政府を維持した
・共産党は、1949年の9月に、民主勢力を北京の人民政治協商会議に招集した
→この会議で10月に、毛沢東を主席として、周恩来を首相とする
中華人民共和国の成立を宣言した
※この時に、首都を北京と定めた
・1950年2月に、モスクワで中ソ友好同盟相互援助条約が調印された
※この時に、中国は社会主義圏に参加する姿勢を見せた
・1953年に、第1次五カ年計画によって、工業化と農業の集団化を推進した
※そして、1954年に新憲法が採択された
※新中国は、社会主義諸国をはじめとしてインドやイギリスなどから承認された
→しかし、アメリカは台湾の中華民国政府を中国の正式代表とする立場をとった
=そのため、長い間中華人民共和国と対立することになった
・朝鮮は、1943年のカイロ会談で第二次大戦後の独立が承認されていた
※しかし、戦後は北緯38度線を境界にして、北半分をソ連が、
南半分をアメリカが管理した
→その後、1948年に南部で、アメリカから帰国した李承晩という人を大統領にして
大韓民国(韓国)が誕生した
→また、北部で、金日成という人を首相(1972年以降主席)として、
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独立が宣言された
=その結果、完全に南北が分立した
・フィリピンは、日本に対する抵抗運動が活発だった
→1946年にフィリピンは、フィリピン共和国として独立した
・オランダ領東インドでは、1945年8月にスカルノという人を指導者として、
インドネシア共和国の成立が宣言された
※オランダは、武力で介入したものの、失敗に終わった
→そのため、1949年にインドネシア共和国は独立を達成した
※この時に、スカルノが初代大統領になった
・フランス領インドシナでは、ホー=チ=ミンが日本の占領下に、
ベトナム独立同盟(ベトミン)を組織した
→そして、終戦直後にベトナム民主共和国の独立を宣言した
※しかし、フランスはこの独立を認めなかった
→そのためフランスは、1949年に阮朝最後の王であったバオダイを建て、
フランス連合国内の一国としてベトナム国を発足させた
※フランス第四共和政は、1946年憲法で、フランスの海外領と植民地を
フランス連合と規定した
→この一方で、フランスはベトナム民主共和国と戦った
=この時の戦いを、インドシナ戦争という
→インドシナ戦争で、1954年にフランスが、ディエンビエンフー
というところで負けた
=そのためフランスは、ベトナムとジュネーヴ休戦協定を結んで、
インドシナから撤退した
※この時に、北緯17度線を暫定的軍事境界線として南北間を分けた
・1953年に、カンボジアが完全な独立を果たした
※カンボジアは、シハヌークという人のもとで中立政策を進めた
・1953年に、ラオスも独立した
※しかし、左派と右派の政治的な勢力の対立が原因で、内戦が始まった
ポイント
・東アジアの国々の戦後の動きをおさえる
・東南アジアの国々の戦後の動きをおさえる
このあたりが今回のポイントです