惣村と土一揆について
惣村と土一揆について考えてみます
・惣村について
・惣村とは・・
・鎌倉時代の後期に、近畿地方やその周辺では、支配の単位である荘園や公領の中に、
いくつかの村が自然と出てきた
→村は、南北朝の動乱の時に、段々と増えてきた
=このように、農民が自分で作った自立的な村を、惣または惣村と言う
・惣村は、昔から有力な農民だった名主の人達と、新しく出てきた小農民が構成員だった
=このように、惣村を構成するためのメンバーを惣百姓と言うこともある
・惣村は、村の神社での祭礼、農業の共同作業、争いに対して協力して戦う、
などを通して段々と村にいる人達の結びつきが強くなっていった
※ここでの祭礼は、宮座と呼ばれる農民の中の祭祀を行う集団の人達が行っていた
・惣村には、以下のようなルールがあった
→・寄合という村の会議で決められたことに従うことになった
・乙名、沙汰人などと呼ばれる村の指導者によって惣村が運営された
・村民は自分達が守るべきルール(惣掟)を定めた
・村の中の秩序を維持するために、村民自身が警察権を使うことになった
=このことを、地下検断または自検断と言う
・惣村は、農業のために必要な山などの、共同で利用できる土地を確保しようとした
=この共同で利用できる土地を、入会地と言う
・惣村で灌漑用水の管理を行うようになった
・地下請(村請や百姓請とも言う)が段々と行われるようになった
※地下請・・領主におさめる年貢などを惣村がまとめて請け負うこと
・惣村の農民は、違法な荘官の免職、水害や干ばつなどがあった時の年貢の減免などを
目指して一揆を結んだ
※一揆のパターンで、代表的なものに2種類あった
・強訴・・荘園領主に全員で押し掛けること
・逃散・・全員が耕作を辞めて、他の土地や山林などに逃げ込むこと
→このような行動を取る場合、惣村が荘園や郷を中心にまとまることもあった
=そのような場合を、惣荘、惣郷などと呼ばれる
・惣村で力のあった人の中には、守護と手を組んで武士になる人が出てきた
→そのため、荘園領主や地頭などが土地を支配することが難しかった
=このように、年貢を荘園領主や地頭におさめつつ、
守護と関係を結んで武士の身分を得た人を、地侍と言う
・惣村の中には、荘園や郷の枠を超えて、他の惣村と手を組むことがあった
=このようにして惣村が手を組むことで、中央政府にまで影響を与えたものに、
正長の土一揆というものがあった
・土一揆について
・1428年に正長の土一揆(正長の徳政一揆)という一揆がおきた
※土一揆とは・・
→徳政を求めて、惣村どうしがつながることで、京都の土倉や酒屋を襲った出来事のこと
※当時、農村には土倉を中心とした高利貸しが多く存在していたので、
徳政一揆は近畿地方から、周りに広がっていった
=この結果、私徳政(債務破棄や売却地の取り戻しなど)が行われた
※なぜ、徳政一揆と言うのか
→土一揆のほとんどが徳政(債権の保護や債務の破棄を行う法律)を求めた一揆だったから
※徳政令以外を目指した土一揆について
→代表的なものに、1429年の播磨の土一揆がある
=播磨の土一揆は、赤松氏の家臣を国から追い出す、という政治的な要求も含まれていた
・政府は、1441年に起きた嘉吉の徳政一揆という一揆で、数万人の農民に京都を占拠された
=そのため、政府が土一揆の要求を受け入れて、徳政令を出した
→この後も、土一揆が起こるようになり、幕府も徳政令を多く出すようになった
※幕府の徳政令の中には、債権や債務の額の10分の1か5分の1の手数料(分一銭)を
幕府に納めることを条件にして、債権の保護や債務の破棄を認めた徳政令も多かった
ポイント
・惣村についてを押さえる
・土一揆を押さえる
このあたりが今回のポイントです