戦後経済による人々の生活と大衆運動の活発化について
戦後経済による人々の生活と大衆運動の活発化について考えてみます
・戦後経済による人々の生活について
※戦争によって、人々の生活がボロボロになった、という前提がある
→実際に、空襲によって様々なモノを失った人達は、防空壕や焼け跡に建てた
バラック小屋で雨風をしのいだり、鉱工業の生産額が戦前の3分の1にまで
下がっていたりした
・兵隊の復員(兵隊の生活を普通に戻して兵隊の招集をやめること)や
引揚げなどによって、人口が一気に増えた
→そのため、人口が増えたのにもかかわらず仕事は無く、失業者が急激に増えた
※さらに、平和主義をかかげていたことがあり、軍事に関する工場が閉鎖されため、
さらに失業者が増えた
・1945年に、お米が記録的な凶作になったため、食糧不足がかなり深刻なものに
なっていった
※お米の収穫量は、戦前と比べると約3割も落ちた
・お米の配給が足りなくなって、さつまいもやとうもろこしなどの代用食に
かえられたり、配給の遅配や欠配が続いた
→そのため、都市の人々は農村に買い出しに行ったり、闇市で買ったり、
自宅で自給したりして飢えと戦っていた
※闇市・・闇取引(裏でひっそりと売買すること)の商品を扱う店が
集まっている場所のこと
・極度の物不足だけでなく、敗戦の時に支払うための軍事費や日本銀行が民間へ貸し出す
お金の増加などのような終戦に関する処理を行うために、通貨が大量に発行された
→そのため、ものすごいインフレーションが起きた
※物不足にインフレーションというかなり苦しい状況だった
→そこで、幣原喜重郎内閣は、1946年に金融緊急措置令という法律を作って、
貨幣の量を減らそうとしたが効果が一時的だった
※金融緊急措置令・・預金の出し入れをできないようにしつつ、旧円(昔のお金)の
使用を禁止して新円(旧円に変わる新しいお金)を使わせるように
した法律のこと
→ただし、新円も引き出す量を制限したため、
世の中に出回る貨幣の量が制限された
・上のような状況を見て、第1次吉田茂内閣は、経済安定本部という組織を作って
対応することを考えた
→そこで吉田茂内閣は、傾斜生産方式を採用して、復興金融金庫(復金)を作った
※傾斜生産方式・・生産の土台を立て直すために、資金や労働力を鉄鋼や石炭などの
基幹産業(その国の生命の源のような、特に重要な土台の
産業のこと)に投入する方式のこと
※復興金融金庫・・第2次世界大戦後の日本経済を復興させるために作られた
金融機関のこと
・大衆運動の活発化について
※戦後の日本経済が不安定で、国民の生活自体が苦しかったため、
大衆運動が活発になるようになった
・敗戦直後に、労働者たちが自主的に生産や業務などを組織する生産管理闘争
というのが活発になった
・全官公庁共同闘争委員会に集まった官公庁の労働者を中心に、吉田茂内閣を倒すことが
目標とされた
→そこで、1947年2月1日に、基幹産業を含めたゼネラル・ストライキに入ることが
計画された
=この時の、2月1日に企画されていたゼネラル・ストライキを二・一ストという
※二・一ストは、決行する前日にGHQの指令によって中止になった
・1947年4月に、日本国憲法での新しい政府を作るため、
衆議院と参議院の両方の議員の選挙が行われた
→その結果、大衆運動が活発になったこともあり、日本社会党がギリギリで勝利して
衆議院の第一党になった
・日本国憲法になって最初の内閣として、日本社会党の委員長だった片山哲という人が
選ばれた
→さらに、片山哲は民主党と国民協力党を誘った
=そのため、片山哲による民主党と国民協同党の連立政権が誕生した
→GHQは、日本が保守でも改革でもない「中道」を進んでいることが
新しい内閣によって証明されたので片山哲内閣を評価していた
※しかし、片山哲内閣は、連立政権が原因で政策を簡単に決めることが出来なかった
=その後、炭鉱国家管理問題という問題が出てきて、左派の人達から攻撃されたため、
1948年2月に内閣を総辞職した
・片山哲内閣の後に、民主党のトップだった芦田均という人が、片山哲内閣と同じように
3つの政党での連立政権で芦田均内閣を作った
※しかし、昭和電工事件という政界からGHQまで巻き込んだワイロの事件が起きた
=そのため、結果的に芦田均内閣が終了した
ポイント
・戦後経済による人々の生活について押さえる
・大衆運動の活発化について押さえる
このあたりが今回のポイントです