アメリカの占領政策の変化について
アメリカの占領政策の変化について考えてみます
・アメリカの占領政策の変化について
※中国の内戦で共産党が勝つことが分かった1948年から、アメリカは
日本への占領政策を変えた
・アメリカは占領政策を変えて、日本を政治的に安定した工業国にとして
復興させることで、冷戦の西側陣営において東アジアでの主な友好国にする
という政策を取ることにした
※政策の変化は、1948年1月にロイヤルという陸軍の長官が演説で
方針を変えることを発表したことではっきり分かった
→そのため、GHQは最初の目標だった非軍事化・民主化は達成されたとして、
日本の工業の生産能力を抑える方針を変えることで、
経済の復活を日本に求めるようになっていった
・アメリカは、日本の経済復興を本格的に行うための前段階として、
以下のようなことを行った
→・日本の外国に対する戦後の賠償が減らされた
・過度経済力集中排除法による大企業の分割が大幅に緩和された
・国家公務員法を改正して、官公庁の労働者は争議権を持つことが出来なくなった
・公職追放が解除された
・民間企業の育成に力が入れられた
・日本の行政の権利をGHQから大幅に日本政府に渡す など
・アメリカの占領政策が変わる時に、1948年10月に芦田均の中道連立政権が終了した
→すると、民主自由党によって第2次吉田茂内閣が誕生した
※民主自由党・・日本自由党が、民主党を抜けてきた人を吸収して出来た政党のこと
→民主自由党は1950年に自由党になった
→1949年1月の総選挙では、民主自由党が圧倒的な議席で勝利した
・GHQは、日本の経済を復興させるために、以下のような本格的な行動を始めた
→※日本は、アメリカの経済政策の前に、傾斜生産方式を行っていた
→傾斜生産方式は、生産を活発にするための起爆剤にはなったが、
赤字財政で大量の資金をつぎ込んでいた
=そのため、傾斜生産方式にお金をつぎ込むことによるインフレが起きていた
・そこで、GHQは1948年12月に第2次吉田茂内閣に対して、
日本の経済の安定のために、徴税の強化、インフレの抑制などが含まれた、
経済安定9原則という原則を出した
※経済安定9原則は、インフレを抑えて輸出を中心に日本を成長させることを
考えて出した
・また、経済安定9原則を実施させるために、1949年に占領軍の経済担当である
ドッジという人を日本に送って、ドッジ・ラインというものを指示させた
※ドッジ・ライン・・復興金融金庫債の中止、補助金の削減、課税の強化などを行って
インフレの抑制をする、1ドル=360円の単一為替レートを
設定して貿易をより行うようにする、
全く赤字を出さない予算を作って、財政支出を減らす、
などを目指すような政策のこと
→第3次吉田茂内閣は、ドッジ=ラインを忠実に行った
・1949年に、シャウプ勧告が行われた
※シャウプ勧告・・シャウプという人が団長だったアメリカの税制調査団
というところが出した勧告のこと
→シャウプ勧告によって、税制の大改革が行われたため、
直接税を中心に取ることや累進所得税制度などが採用された
・ドッジ=ラインによって、インフレは収まったものの、収まりすぎて
逆にデフレになってしまった
→そのため、中小企業の倒産やリストラなどによる失業者の増加などが起きてしまった
※強引なリストラは、共産党を始めとして労働側が抵抗した
=しかし、1949年に起きた下山事件、三鷹事件、松川事件の影響もあって
労働側は使用側に押し切られた
※・下山事件・・リストラを行っていた下山定則という当時の国鉄のトップが
疑いのある死に方をした事件のこと
・三鷹事件・・中央線三鷹駅の構内で無人電車が暴走するという事故が起きた
事件のこと
・松川事件・・東北本線松川駅の近くで列車の脱線と転覆が起きた事件のこと
→これら一連の事件は、国鉄の労働組合や共産党が関係して起きた事件だと
世間では発表されたため、労働側にとってはダメージだったが、
事件が実際どうだったのかはまだ分かっていない
ポイント
・アメリカが変えた占領政策の内容とその理由、動機を中心に押さえる
このあたりが今回のポイントです