サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約について
サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約について考えてみます
・サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約について
・アメリカは、朝鮮戦争の時に、思った以上に日本に価値があることを改めて感じた
→そのため、アメリカは日本の占領を終わらせて、日本を冷戦の西側に取り入れる
動きを早めた
・アメリカのダレスという外交顧問などは、日本との講和からソ連などを除外し(単独講和)、
講和後もアメリカ軍が日本に留まることを条件に、日本の占領を終わらせる準備を進めた
※日本で南原繁や大内兵衛という人や日本社会党、日本共産党などは、ソ連や中国とも
講和をするべき(全面講和)という考え方を持っていた人達もいた
→特に、日本社会党については党の内部で対立が激しくなり、
1951年に左派と右派に分かれている
→当時の内閣だった第3次吉田茂内閣は、様々なことを考えたが、
以下のような結論を出した
・日本の独立や講和の時期に関する問題は、アメリカ軍の基地にあると考えた
・アメリカ軍に日本に留まってもらえると、日本が軍備をわざわざ用意する必要が無い
・軍事を用意する分の時間や資金を、日本経済の復活に充てて、
全力で経済を復興させたいと考えた
=このような考え方から、ソ連や中国などとの講和をやめて、
アメリカを中心とした西側の国々とだけ講和をすることにした
→第3次吉田茂内閣の考えによって、西側とだけ講和を行った結果、
以下のようなことになった
・西側との講和によって、日本の占領が終わることが考えられるようになった
・日本がアメリカ軍に基地を提供することになった
・基地の提供の代わりに、独立した後の日本の安全保障を
アメリカに任せることになった
・1951年9月に、サンフランシスコ講和会議という会議が開かれた
→この会議で、日本とその他48カ国との間で、サンフランシスコ平和条約
という条約を結んだ
=1952年4月に条約がスタートして、アメリカの日本占領は終了し、
日本は独立国になった
※サンフランシスコ平和条約について
・ソ連などは、サンフランシスコ講和会議には出席したが、調印はしなかった
・インドやビルマ(現在のミャンマー)などは、サンフランシスコ平和条約の内容に
不満があったため、会議に出席しなかった
・中華人民共和国と中華民国は、両方とも会議に呼ばれなかった
※日本は、サンフランシスコ平和条約とは別に、以下のようなことを行った
・1952年に中華民国と日華平和条約という条約を結んだ
・1952年にインドと、1954年にビルマとも平和条約を結んだ
※サンフランシスコ平和条約の内容について
・領土について様々なルールが決められた
→・朝鮮を独立させた
・台湾、南樺太、千島列島などを放棄させた
・奄美諸島が1953年に日本に返された
・沖縄と小笠原諸島はアメリカが支配することになった
※アメリカは、国連に相談しないで沖縄と小笠原諸島を支配した
・日本の戦争に対する賠償について決められた
→・日本が戦った国の戦争被害については、サービスや生産物の提供という形で
賠償を払う義務を定めた
※ただし、冷戦が激しくなったこともあり、アメリカを始めとして
多くの国は日本の賠償を拒否した
・日本に占領されたフィリピン、インドネシア、ビルマ、南ベトナムの4カ国は、
日本と賠償協定という協定を結んだ
→そのため日本は、1976年までにトータルで10億ドルの賠償を支払った
※ただし支払い方法は、現金ではなく、サービスや生産物の提供だった
=この支払い方法が、日本の商品や企業が東南アジアに進出するきっかけ
でもあったと言われている
・直接は戦っていないタイや韓国に対しては、賠償と同じような支払いを行った
・サンフランシスコ平和条約の調印と同じ日に、日米安全保障条約(安保条約)
という条約が調印された
→この条約によって、日本が独立した後も日本国内にアメリカ軍が
「極東の平和と安全」のために、留まることで、日本の防衛に貢献することが決められた
※さらに、条約の中では、アメリカが必要だと考えれば、日本のどの地域でも
基地として求めることが出来た
※日本に留まるアメリカ軍の行動範囲である「極東」は、定義があいまいだった
→日米安全保障条約にもとづいて、1952年2月に日米行政協定という協定が結ばれた
=この協定によって、日本は日本に留まっているアメリカ軍に基地を提供することと、
アメリカ軍が留まるための費用をある程度負担することが決められた
ポイント
・サンフランシスコ平和条約の内容と概要について押さえる
・日米安全保障条約の内容について押さえる
このあたりが今回のポイントです