冷戦と内戦について
冷戦と内戦について考えてみます
・冷戦と内戦について
・1970年代半ばに、アメリカとソ連の関係は緊張緩和へと向かっていった
=この動きを、デタントという
※しかし、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したことがきっかけとなって、
次の年の1980年のアメリカ大統領選挙で当選したレーガンという人が
ソ連と対決する姿勢をはっきりと示した
=そのため、1980年代は「新冷戦」の時代になったと言われている
→レーガン大統領は、軍拡を行う一方で、経済政策として企業の活動を活発にする
大幅減税や規制緩和を行った
※同じ時期に、イギリスのサッチャー政権や日本の中曽根政権は、
有効需要創出政策(ケインズ政策)や福祉国家政策を批判して、
昔の自由放任経済に戻る「小さな政府」の実現が目指された
・新冷戦について
・新冷戦が進んだことで、アメリカとソ連の経済はさらに悪化した
※アメリカは、国内産業の空洞化、国家財政と国際収支が赤字となる
「双子の赤字」に苦しんだ
→アメリカはこの時、世界最大の債務国に転落した
※ソ連も、深刻な経済危機になってしまった
→そこでソ連は、1985年に登場したゴルバチョフという人の指導によって、
ソ連国内経済の立て直しを行った
=この立て直しをペレストロイカという
→ソ連は、ペレストロイカを始めとして以下のようなことを行った
・元々計画経済を行っていたが、計画経済が機能不全になったため、
市場原理を導入した
・情報公開や市場原理の導入などを通して政治や社会の自由化を進めた
・積極的な外交を行うことで、アメリカとの関係を改善しようとした
・1987年に中距離核戦力(INF)全廃条約を結んだ
・1988年に、アフガニスタンから兵隊を撤収させた
=以上のような動きをふまえて、マルタ島という場所で、アメリカとソ連の
首脳会談を行った結果、「冷戦の終結」がアメリカとソ連の共同で宣言された
・冷戦後の世界の動きについて
・冷戦後に、ソ連が自由化の動きを進めたが、その動きが東欧の国々の人々を刺激した
→その結果、東欧の国々はどんどん社会主義体制を放棄して、
東側陣営から抜け出していった
=この動きを東欧革命という
・東欧革命の後、以下のようなことが起きた
→・冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」は壊され、次の年に東ドイツと西ドイツが統一した
・東アジアで、1990年にソ連と韓国が、1992年に中国と韓国が国交を結んだ
=これらの動きの結果、東西対決という構造が崩れることになった
・1991年の終わりに、ソ連が解体するという動きが起きた
=この動きによって、冷戦の時代は完全に終了した
→この時、旧ソ連の国々の多くは、ロシア共和国(現在のロシア連邦)を中心とする
ゆるやかな連合体として「独立国家共同体」(CIS)を作った
※しかし、旧ソ連やユーゴスラヴィアなどでは、民族と宗教にもとづいた
深刻な紛争が続いていた
・冷戦が終わった後に、アメリカの外国に対する影響力がもう一度強くなった
→1991年の初めに、クウェートに侵攻したイラクに対して、
アメリカ軍を中心とした「多国籍軍」が国連の決議を背景にして、
武力での制裁を加えた
=この時の戦争を、湾岸戦争という
※湾岸戦争の時に、日本はアメリカから「国際貢献」をせまられた
→そこで日本は、「多国籍軍」に大量の資金の援助を行った
※しかし、国際的には地域紛争に対して国連平和維持活動(PKO)で
対応する動きが強まっていた
=そのため日本は、1992年から内戦の続くカンボジアなどへ
自衛隊を派遣することを始めた
→さらに、一連の特別措置法に基づいて、2001年のアフガン戦争、
2003年のイラク戦争にも自衛隊を派遣した
※日本の自衛隊の海外派遣について
・日本の自衛隊については、海外派遣が違憲かどうか、などについて意見が対立していた
→しかし、1992年に宮沢喜一という人を首相とする内閣のもとで、
PKO協力法という法律が作られた
=その結果、PKOへの自衛隊の海外派遣が可能になった
※日本は実際に以下の場所に派遣している
・1993年にモザンビーク
・1994年にザイール(現在のコンゴ民主共和国)
・1996年にゴラン高原
・2002年に東ティモール
ポイント
・冷戦の時の動きのその後の世界の様子をおさえる
・日本の自衛についておさえる
このあたりが今回のポイントです