「法の支配」と様々な人権について① -「法の支配」の考え方と人権論の関係-
「法の支配」と様々な人権について、関連する部分を交えながら考えてみます
・「法の支配」に対する考え方について
※そもそも、「法の支配」とは・・・
・「法の支配」・・社会をまとめるためには、法律を用いるべきだという考え方のこと
(ただし、この考えの中には、まとめる人が
法律を勝手に変えてはいけない、という意味も含まれている)
※ドイツにあった、法治主義という考え方は、「法の支配」と同じように
法律を重視したが、まとめる人が変えてはいけない、という部分よりも、
権力の使い方が法律に合っているか、という部分が重要だった
→このような考え方から、「法の支配」の反対を、「人の支配」と言う
・「法の支配」は、歴史的にどのように捉えられたか、「法の支配」の考え方について
・法の支配について、様々な形で考えられ、イギリスのマグナ・カルタ、
ボーダンやコークの主張などが代表的なものとして扱われる
・イギリスのマグナ・カルタ(大憲章)
・中世で、「法の支配」を提唱したもの
・その中で考えられていた内容は、身分制度などのような不平等が前提にあったものだった
→マグナ・カルタの「法の支配」ような、法律によって権力が制限されている状況を
変えるべきだとして、絶対王政が考えられた
=その代表が、ボーダンという人だった
・ボーダン
・主権論(絶対王政による、中央集権的のような、王を中心とした政治の方法)を提唱した
・ボーダンは、法律は国をまとめる人が出した命令である、と考えて、
ボーダンより前の「法の支配」を否定した
→そこでボーダンは、王は神から支配する権利を直接授かっている
という考え方も提唱した
=このような考え方を王権神授説と言う
※王権神授説の詳しい考え方は、倫理の西洋思想の以下を参照
・社会契約説・自然法と自然権について
・エドワード・コーク
・ボーダンの考え方に対抗して自分の意見を考えた
・コモン・ローと「法の支配」を貫く考えを提唱した
※コモン・ロー・・「王様はどの人よりも上の立場だが、神と法律だけには
王様は勝てない」という考え方のこと
法律家のブラクトンという人が考えた
→ボーダンの考え方とコークの考え方について、「法の支配」を中心に議論が行われ、
ボーダンの考え方を推して、身分制度や特権などを守りたい貴族と、
絶対王政に対抗する人々との間で非常に大きな対立が起きた
=この大きな対立を、ピューリタン革命(清教徒革命)と言う
※このような流れを受けて、結果的に「法の支配」の方向性は、
権利章典などで確認されることになった
・「法の支配」に対する基本的人権論からの批判
※身分制度と関連している「法の支配」は、基本的人権論によって批判された
→「法の支配」は特権論の、基本的人権論は人権論の考え方が強かったと言われている
・特権論と人権論の違いについて
・特権論・・昔の伝統や歴史の流れなどを理由に、一部の身分の高い人達だけが
権利を持つ考え方のこと
・人権論・・人間は、生まれた時から自由で平等な存在(基本的人権)で、
様々な自然権を持っているという考え方のこと
※人権論は、身分制度を壊す可能性があると考えられ、恐れられていたが、
ホッブズやロックが結果的に人権論を広めることになった
・人権論が受け入れられるまでの流れ
・人権論は、身分制度が最初から存在していなかったアメリカで浸透していった
→その流れを受けて、アメリカのバージニアでバージニア権利章典というものが
作られたことが大きいと言われている
※バージニア権利章典のような人権論は、アメリカ独立宣言やアメリカ権利章典、
フランス革命の人権宣言などに影響を与えたと言われている
※フランス革命の時に作られた人権宣言は、今までの政治や国家は
人権論の考え方に移るべき、ということを宣言したものだった
→以上のような流れを受けて、「法の支配」は、基本的人権の考え方を
取り入れたものに変わっていった
ポイント
・「法の支配」の解釈の代表的なものに、マグナ・カルタ、ボーダンの主権論、
コークのコモン・ローと「法の支配」の組み合わせ、という考え方などがある
・「法の支配」について対立し、その対立をピューリタン革命(清教徒革命)という
・「法の支配」の考え方に、特権論と人権論があった
・人権論は、バージニア章典、アメリカ独立宣言、
フランス革命の時の人権宣言などに影響を与えた