国際政治の動きについて① -冷戦の始まりから1970年代まで-

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投稿者:       投稿日時:2013/11/16 02:51      
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国際政治の動きについて、冷戦の始まりから1970年代までについて考えてみます

 

 

・冷戦について

 

 ・冷戦の概要

  ・アメリカとソ連が、ヨーロッパを舞台に行ったものだった

  ・アメリカは資本主義を、ソ連は共産主義を提唱して対立した

  ・冷戦というように、軍事を大量に使った大きな戦争という感じではなかった

  ・ヨーロッパの西側はアメリカのような資本主義的な団結が、

   東側はソ連のような共産主義的な団結があった

  ・ヨーロッパが東西に分裂するときに、ドイツは東ドイツと西ドイツに分けられてしまった

 

 

 ・冷戦になるまでの流れについて 

  

  ・第二次世界大戦の終わりのころに、ヤルタ会談というものが開かれた

   →そこで、アメリカとソ連の政府が、第二次世界大戦の時のような

    お互いに協力し合う関係を続けることを考えた

   ※しかし、アメリカが自由主義、ソ連が共産主義を提唱して、

    それぞれの国が陣営(ブロック)という、

    自分の国の土地以外で政治や経済などが優先されている地域といった、

    縄張りのようなものを作ってしまった

    →そのため、政治面(イデオロギー的)や軍事面など対立することになってしまった

     =これを、冷戦体制という

 

 

 ・冷戦の時のアメリカ政府の動きについて

 

  ・1947年以降に、トルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランというものを通して、

   ヨーロッパの自由主義の国々を団結させるようにした

  ・共産主義の範囲が広がらないように、「封じ込め政策」というものを使った

  ・北大西洋条約機構(NATO)というものを作って、ヨーロッパの西側の

   軍事的な団結力を高めた

 

  ※・トルーマン・ドクトリン・・アメリカのトルーマン大統領という人が、

                 ギリシャとトルコに軍事的な援助を

                 議会でお願いした演説で明らかになった、

                 冷戦の時のアメリカの外交の基本的なルールのこと

 

   ・マーシャル・プラン・・マーシャルというアメリカの国務長官が提唱した、

               ヨーロッパの戦後の復興を支援するための計画のこと

                →このプランに、ソ連とヨーロッパの

                 東側の国々が参加しなかったため、

                 ヨーロッパが東西に分裂してしまう

                 大きな原因の一つとなった

 

   ・封じ込め政策・・アメリカが資本主義の国と協力をして、

            ソ連と共産主義の勢いを抑えつけようとした政策のこと

            ※結果的には失敗に終わっている

 

 

 ・冷戦の時のソ連の動きについて

 

  ・国際共産党情報局(コミンフォルム)や経済相互援助会議(COMECON)

   というものを作って、ヨーロッパの東側の国々の政治や経済などの団結力を高めた

  ・ワルシャワ条約機構(WTO)というものを作って、軍事の面での団結力を高めた

 

 

 

 ※アジアの動き

  ・1940年代に、中国、朝鮮、ベトナムなどが、国を分けられてしまった

   →特に中国は、国の中で対立があったため、中華人民共和国と中華民国に分けられた

   ※アジアでは、ヨーロッパとは違い、冷戦に軍事が加えられて、

    「熱戦」になってしまった

    ※「熱戦」の例:朝鮮戦争、インドシナ戦争など

 

 

 

 

・1950年代-1970年代の世界の動きについて

 

 

・1950年代の動きについて

   

 ・1950年代の初めに、アメリカとソ連が水爆実験(原爆の一種)に成功して、

  世界的な核戦争が起こるという不安が世界に広がった

  →そこで、核戦争が起きないように、東西の対立を無くそうとする考え方

   (=緊張緩和)が言われるようになった

 

  ・緊張緩和の例-・朝鮮戦争とインドシナ戦争を終わりにする

          ・アメリカ、イギリス、フランス、ソ連のそれぞれの首相が集まって

           ジュネーブ4巨頭会談という会談が開かれた

 

 ・1956年に、フルシチョフというソ連の共産党第一書記が、

  ソ連のスターリンという人の考え方を批判して、

  資本主義と社会主義が平和共存をすることは出来ると考えた

 

 

 ・東西の緊張緩和は、東西の対立を無くすことではなく、

  東西の対立を落ち着いた状態でキープすることを目指していた

 

  →そのため、東西の対立は続いてしまい、キューバ危機が起きたり、

   アメリカとソ連との間で核軍拡競争が起きたりした

   ※キューバ危機・・ソ連がキューバという国にミサイル基地を作ったことを理由にして、

            アメリカがキューバの海上の交通を封鎖してしまったことで、

            世界が核戦争になりかけた出来事のこと

            →ソ連が基地を撤去したので、実際に核戦争にはならなかった

 

  →一方で、東西の対立を落ち着いた状態にキープする動きもあった

   例:キューバ危機の後に、アメリカとソ連の間でホットライン協定というものが結ばれた

     ※ホットライン協定・・首相どうしで直接対話ができるようになった協定のこと

 

 

 

 

・1960年代の動き

 

 ・1960年代になると、国際政治がアメリカとソ連という2つの大きな国を

  中心とした政治から、様々な国が中心となる政治になっていった

 

 ・西側の動き

  ・日本やヨーロッパの西側の国々が経済面で力を伸ばしてきた

  ・フランスが独自の核兵器を作って、1966年にNATOを抜けた

  ・ベトナム戦争という戦争がアメリカの政治や経済の力を弱くしてしまった

 

 ・東側の動き

  ・中国とソ連が対立した

  ・チェコスロバキアという国で、民主化を目指す運動(プラハの春と言う)が起きた

   →プラハの春を、ワルシャワ条約機構が抑えつけてしまった

    =この出来事をチェコ事件という

 

 

 

 

・1970年代の動き

 

 ・1970年代前半に、アメリカ政府がデタント(緊張緩和)政策を行った

  →この後、アメリカとソ連の間で軍備管理(お互いの軍備の増加を限定すること)が進んだ

   また、アメリカと中国で和解も行われた

 

 ・1975年に、全欧安保協力会議(CSCE)が開かれた

  →この会議で、人権や経済の分野で東西の対話が行われて、

   東西の緊張は少し緩和されたと言われている

  ※この会議には、ヨーロッパの国々、アメリカ、カナダなど35カ国が参加した

 

 

ポイント

・冷戦の概要、流れを押さえる

・冷戦の時のアメリカとソ連の動きを押さえる

・1950年代、60年代、70年代のそれぞれの動きを押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

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