日本財政の類型化―3、ケインズ主義型財政
以前、50年代半ばから60年代半ばを開発主義国家型財政として議論しました。本記事で検討するケインズ主義型財政は、減税政策や財政投融資の活用という部分では開発型と重複するところがあります。しかしながら、公共事業の役割という観点から見れば、開発型と60年代後半以降のケインズ型は異なった役割を果たしているので、両者を分けるほうがより正確だと思います。したがって、本節では60年代後半以降から70年代をケインズ型として議論を進めていきます。
3-1 過疎化の進行と対策
1960年代後半からは、「過疎」が問題視され始めた時期です。過疎化の要因としては、所得倍増計画や全国総合開発計画などを軸とする開発型財政が大規模に展開されたことがあります。各地で大規模に展開された地域開発は、地元の農業やその他の産業、雇用や住宅生活に大きな影響を与えました。地域開発は前節で触れたように大都市圏に集中したため、大都市圏では就業構造が第2・3次産業に偏り、求人難が起きました。その結果、若年労働力が大都市圏へと流れ、過疎化が進行したのです。
そこで過疎対策として、1970年に「過疎地域対策緊急措置法」が施行されました。その目的は、過度の人口減少を抑えるとともに、地域社会の基盤を強化し、地域格差を是正することであり、抜本的な過疎対策は全国的な地域政策の一環として実施すべきとされました(藤田下記参考文献、118頁)。これをきっかけとして、公共投資の重点は大都市圏から地方へと次第にシフトしていきました。これについては1人当たりの公共投資を見ると明らかです。1976年の1人当たり行政投資で見ると、上位が高知、北海道、岩手、茨城、島根、鳥取、下位は埼玉、静岡、大阪、神奈川、長崎、愛知となっており(宮本下記参考文献、209頁)、70年代の公共投資は地方に重点を移していることがよくわかります。
3-2 安定成長への移行と景気対策
1970年代は、ニクソンショックや石油ショック等を背景に、高度成長は終焉することとなり、いわゆる安定成長へと移行する時期です。この移行に伴い、有効需要喚起ための本格的な財政金融政策、いわゆるケインズ政策が発動されました。70年代最初の課題としては、石油ショックを原因とする急激なインフレをどう終息させるかでした。その手段として使われたのが財政金融政策です。この時の景気引き締めによってインフレは抑制されたものの、経済成長は鈍化し、74年には戦後初めての実質成長率ゼロを記録しました。この景気引き締めによって景気回復は遅れたため、75年には一転して政府は景気刺激策を採用しました(政金融政策の流れについては石下記参考文献、331頁、表10.2が詳しい)。
日本経済が景気浮揚に苦労していた70年代は、世界的に見ても不況でした。そこで世界同時不況を恐れた国際社会は、78年のボン・サミットでアメリカ、西ドイツ、日本による「機関車論」を打ち出し、不況対策として財政出動を喚起しました。図2-2を見ると、70年代に公共事業や財投急激に伸びているのはこのためです。また、図2-1の70年代の国債急増が示すように、これらの財源は国債発行による調達でした。更に、第2章でも触れたように、70年代は社会保障制度が整備された時期でもあり、これも歳出増加圧力となったことで財政赤字が累積していきました。
3-3 小結
本記事では、60年代後半から70年代のケインズ主義型財政について検討しました。ポイントとしては、①過疎の進行を背景に公共事業の重点が大都市集中から地方へとシフトしたこと②国の不況対策としての公共投資の増大が挙げられます。ここで注目したいのは、開発主義国家型財政とケインズ主義型財政の違いです。開発型もケインズ型も、公共事業を活用しているという点では同じです。しかしながら、開発型は民間の旺盛な需要に応えるための公共事業であったのに対し、ケインズ型は過疎地域の経済活性化や国の不況対策としての公共事業、すなわち有効需要を喚起するための公共事業であったという点で決定的な違いがあります。したがって、①有効需要の喚起としての公共事業②有効需要の喚起としての公共事業を後押しする財政投融資③70年代に入っても続いた減税政策という3つの特徴を持つ60年代後半から70年代の財政運営は、ケインズ主義型財政と呼ぶことができます。
参考文献、資料
・石弘光『現代税制改革史』東洋経済新報社、2008年
・藤田武夫『現代日本地方財政史(下巻)』日本評論社、1984年
・宮本憲一『現代資本主義と国家』岩波書店、1981年