シュメール人の都市国家とメソポタミアの統一について
シュメール人の都市国家とメソポタミアの統一について考えてみます
・シュメール人の都市国家について
・灌漑農業の発達したメソポタミアの南部では、紀元前3500年ころから人口が急激に増えた
→そのため、神殿を中心に数多くの大村落が誕生し、文字が発明され、
銅や青銅器などの金属器が普及し始めた
・紀元前3000年ころに、神官、戦士、職人、商人などの数が増えた
→そのため、大村落が都市へと発展していった
→それぞれの都市はそれぞれ独立した
=その結果、紀元前2700年ころまでにウル・ウルクなどのシュメール人(民族系統不明)の
都市国家が多く作られた
※この時の都市国家では、王様を中心にして、神官・役人・戦士などが活躍した
→このような人たちは、都市の神を祀り、政治、経済、軍事などの実権を握って人々を支配した
=このような社会を階級社会という
・それぞれの都市国家は大規模な治水や灌漑によって生産を高めていった
→さらに、交易を行うことで必要な物資を得て、
お互いの都市国家同士で競い合う状態が生まれた
=その結果、2つの状況が出てきた
①勢いがついた都市国家の支配層は大量の富が集まり、
神殿や宮殿、王墓などを作って、シュメール文化が栄えた
②勢いをつけるため、他の都市国家と戦争をする必要があり、
戦争が影響して都市国家が衰えていった
=最終的に、紀元前24世紀にセム語系のアッカド人という人たちによって征服された
・メソポタミアの統一について
・アッカド人はメソポタミアやシリアの都市国家を統一して、広い領域の国家を作った
※しかし、しばらくすると統一した国家が滅んでしまった
→その後、セム語系のアムル人という人たちがバビロン第1王朝(古バビロニア王国)を作った
=結果的に、紀元前18世紀ころのハンムラビ王という人の時に全てのメソポタミアを支配した
→ハンムラビ王は以下のようなことを行った
・運河の大工事を行って治水と灌漑を進めた
・ハンムラビ法典を発布することで、法律を土台とした強力な政治を行った
※ハンムラビ法典について
・ハンムラビ法典は、「王は神の代理として統治」することになっている
・刑法は、「目には目を、歯には歯を」という復讐法の原則に従っていた
※しかし、刑罰の重さは被害者の身分によって違っていた
・イギリスのローリンソンという人がハンムラビ法典の解読の手掛かりを示した
※ハンムラビ王の時代に栄えた文明は、周りの様々な民族にも影響を与えた
→次第に、周辺の民族は文明にある富を求めて侵入と移住を繰り返すようになった
・その後、ヒッタイト人という人達が17世紀の半ばころ、アナトリア高原(小アジア)というところに
強力な国家を作った
→ヒッタイト人はメソポタミアに遠征して、バビロン第1王朝を滅ぼした
※さらに、シリアに進んで、エジプトとも戦っている
→その後、カッシート人という人達が南メソポタミアに侵入して、
バビロン第1王朝滅亡後のバビロニアを支配した
→さらに、ミタンニ王国という王国も北メソポタミアからシリアに領土を広げ、
ミタンニ王国がヒッタイトに服従するまでの間、強力な国力を保った
=以上のような流れを受けて、オリエントの世界では紀元前15~紀元前14世紀に、
エジプトの新しい王国も含めて様々な王国が大量に出てくるという複雑な政治の状況が生まれた
→そのため、オリエント世界は数世紀の間混乱が続くことになった
・メソポタミアの特徴について
・メソポタミアは多神教の世界だった
※しかし、民族が変わるたびに、信仰される最高神も変わっていった
・文字については、シュメール人が始めた楔形文字が
多くの民族の間で使用されるようになった
※民族や人種によって言語が違っても、多くの人が粘土板に楔形文字を書き記していた
・六十進法や太陰暦を使用し始め、それに基づいて閏年を設置した
→メソポタミアでは、天文、暦法、数学、農学などの実用の学問が発達した
ポイント
・シュメール人の都市国家の様子についておさえる
・メソポタミアの統一とバビロン王朝、その後のオリエントの様子をおさえる
このあたりが今回のポイントです