パルティアとササン朝・イラン文明の特徴について
パルティアとササン朝・イラン文明の特徴について考えてみます
・パルティアについて
・紀元前334年に、マケドニアの王様だったアレクサンドロス大王という人は、
東方の遠征に行き、エジプトを征服した
→その後、アケメネス朝のペルシアを滅ぼして、
インドの北西部に進出していった
=結果的にアレクサンドロス大王は、東西にまたがるほどの大きな帝国を作った
・アレクサンドロス大王が亡くなった後、
アレクサンドロス大王が征服したアジアの領土については、
全ての領土をギリシア系のセレコウス朝に受け継がれた
・一方で、紀元前3世紀の半ばころに、アム川上流にいたギリシア人が独立して、
バクトリアという王国を作った
・さらに、遊牧のイラン人の族長だったアルサケスという人が、
カスピ海東南部にパルティア(中国名で安息)という国を作った
→パルティアは、紀元前2世紀の半ばころに、メソポタミアを自分の地域に併合させた
=その結果、クテシフォンというところに都を設定し、
東西貿易の利益を独占して、栄えていった
・ササン朝について
・農業を土台とするイラン人が、パルティアを倒して、ササン朝という王朝を作った
・ササン朝は、アルダシール1世という人が作った
→アルダシール1世は、クテシフォンを首都にし、
ゾロアスター教を国の宗教にして、国を統一しようとした
・その後、ササン朝の2代目の皇帝にシャープール1世という人が就いた
→シャープール1世は以下のようなことを行った
・シリアに侵入して、ローマ軍を倒し、
シリアの皇帝だったウァレリアヌスを捕虜にした
・東方で、インダス川の西岸にまで広がるような広い地域を統合して、
中央集権的な体制を作った
・ササン朝は、5世紀の後半に、中央アジアの遊牧民だったエフタルに侵入された
→そこで、ホスロー1世という人の時代の時に、
トルコ系遊牧民だった突厥と手を組んで、エフタルを倒した
→その後、ビザンツ帝国というところとの戦いも有利に進めていき、和平を結んだ
・しかし、ホスロー1世が亡くなってからは、ササン朝はだんだんと衰えていった
→そのため、7世紀の半ばに新しく出てきたイスラーム勢力だったアラブ人によって
征服されて滅んでしまった
※滅亡したのは、651年だった
※しかし、642年のニハーヴァンドの戦いという出来事の時に
ササン朝はアラブに負けてしまったので、
その時にササン朝は、事実上崩壊してしまった
・イラン文明について
・パルティアの初期の文化は、ヘレニズムという文化の影響を強く受けていた
※そのため、王様は、「ギリシア人を愛するもの」という称号を帯びていた
・しかし、紀元前1世紀ころに、イランの伝統文化が復活し始めた
=その結果、ギリシアの神々と、イランの神々の両方が、
一緒にまつられるようになった
・ササン朝の時に、「アヴェスター」という教典が編集された
※アヴェスター・・イランの民族的宗教だったゾロアスター教の教典のこと
・3世紀に、宗教家だったマニという人が、ゾロアスター教、仏教、キリスト教を融合して、
独自にマニ教という宗教を作った
※マニ教について
・マニ教は、ササン朝の内部では、特殊すぎるということで
弾圧されて広まらなかった
・しかし、北アフリカ、中央アジアなどにマニ教は広まっていった
・唐の時代の中国にもマニ教は伝えられた
・アウグスティヌスという人は、カルタゴというところに住んでいた時に
マニ教の影響を受けた
・キリスト教の中で異端派だった派閥(アルビジョワ派など)の一部にも、
マニ教の影響が認められている
・ササン朝時代に、建築、美術、工芸などの分野が発達した
→精巧につくられた銀器、ガラス器、彩釉陶器の技術や様式は特に素晴らしく、
様々な場所に受け継がれた
※当時の技術はどこに受け継がれたのか
・ササン朝の次のイスラーム時代に受け継がれた
・ビザンツ帝国を通って、地中海世界に受け継がれた
・南北朝、隋唐時代の中国を通って、飛鳥・奈良時代の日本に受け継がれた
※日本で受け継がれて作られた代表的な作品に、
法隆寺の獅子狩文錦、正倉院の漆胡瓶などがある
ポイント
・パルティアについておさえる
・ササン朝についておさえる
・イラン文明についておさえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
定期テスト対策に役立ちましたありがとうございました!
ところで上から10行目のすべての領土を〜のところ、セレコウス朝ではなくセレウコス朝ではないかなと思いました…!
こちらの間違えでしたらすみません。