キリスト教の迫害と国教化への動きについて
キリスト教の迫害と国教化への動きについて考えてみます
・キリスト教の迫害と国教化への動きについて
・当時のローマは多神教で、皇帝は神の中の一人だと考えられていた
※この考え方を土台にして、皇帝崇拝儀礼がだんだんと強化されていった
→しかし、キリスト教徒は唯一絶対神を信じていたため、
皇帝の礼拝を拒否して、国家の祭儀に参加しなかった
=そのため、当時のキリスト教徒は反社会的集団とみなされた
→64年のネロ帝という人の迫害から
303年のディオクレティアヌス帝の大迫害という出来事まで、
キリスト教徒は民衆や国家から激しく迫害された
※しかし、キリスト教は迫害を受けていたものの帝国全体に拡大を続けていた
→そのため、キリスト教を禁止すると、帝国の統一の維持が出来ない
ということが分かった
=結果、313年にコンスタンティヌス帝はミラノ勅令というものを出して、
キリスト教を公認した
※さらに、324年にコンスタンティヌス帝が全国統一を果たすということが起き、
キリスト教の公認が全帝国に広がっていった
→その後、キリスト教は皇帝の保護を受けて勢力をのばしてった
・当時のキリスト教は教義(教えの内容)について論争が起きていた
※そのため、325年にコンスタンティヌス帝がニケーア公会議という会議を開催した
→そこでは、アタナシウス派が正しいとされ、
アリウス派は特殊だということになった
・アタナシウス派・・キリストは神であるという考え方
・アリウス派・・キリストは人間であるという考え方
→アタナシウス派の考え方は、三位一体説という考え方として確立され、
キリスト教の正統教義の根本になった
※三位一体説・・父なる神、子なるキリスト、聖霊の3つは独立しながらも
同一であるという考え方
※4世紀の後半に「背教者」と呼ばれていたユリアヌス帝が
アリウス派の復興を狙ったが失敗している
=結果的に、392年にテオドシウス帝という皇帝が
アタナシウス派キリスト教を国教にして、他の宗教を禁止した
→このように、キリスト教が国家の権力とつながっていくにつれて、
一般の信徒の指導や監督をする司教・司祭などと呼ばれる
聖職者の身分というのが誕生して、教会が組織化されていった
・一方で、特殊だと考えられていたアリウス派は、
北方のゲルマン人の中に広がっていった
・さらに、431年のエフェソス公会議という会議で、
ネストリウス派も異端だと宣告された
※ネストリウス派・・キリストの神的な部分と人間的な部分を分けて考える
という考え方のこと
→ネストリウス派は、ササン朝を通って唐の時代の中国に伝わって、
景教と呼ばれた
ポイント
・キリスト教の迫害の流れについておさえる
・キリスト教の国教化の流れについておさえる
・異端の考え方の扱いについておさえる
このあたりが今回のポイントです