エジプトの統一国家について
エジプトの統一国家について考えてみます
・エジプトの統一国家について
・エジプトには、「ナイルのたまもの」という言葉があり、ナイル川の増水と減水を利用して、
豊かな農業が行なわれた
→エジプトは、メソポタミアとともに、最も古く文明が誕生していた
※「ナイルのたまもの」という言葉について
・この言葉は、ギリシアの歴史家のヘロドトスという人の言葉だった
・ナイル川は毎年7~10月に増水や氾濫があり、
川の上流から栄養が豊富な土を運んでいたため、
他の地域に比べて、豊かな農業が行なわれた
・ナイル川流域では、はやくから多くの村落(ノモスという)が形成された
※しかし、ナイル川の治水には住民の共同の労働と、
住民をまとめる強力な指導者が必要だった
=そのため、エジプトはしだいに統合へ向かっていき、
全国を統治するための政治組織も作られていった
・紀元前3000年ころのエジプトでは、メソポタミアよりはやく、
王(ファラオ)による統一国家が作られた
→その後、基本的に国内の統一を保つ時代が続いた
※しかし、一時的に周辺の民族の侵入や外国の支配を受けることもあった
→国内の統一を保っている時に、約30の王朝が交代している
※そのなかで、特に反映した時代を古王朝、中王朝、新王朝の3期に分けることが出来る
・エジプトの社会と政治の様子について
・エジプトでは、王様が生きている神として王様を中心とした神権政治を行った
・国土の所有者は王であり、少数の神官や役人などは王から土地を与えられた
・しかし、住民のほとんどは農民だった
※農民には、生産物への税金と無償の労働が課せられた
・エジプトで繁栄した時代について
・古王国が、ナイル下流域のメンフィスというところを中心に栄えた
→古王国では、クフ王などがたぶん自分の墓として、大きなピラミッドを作らせた
※ピラミッドは、神様である王の絶大な権力を示している
・中王国が、上エジプトのテーベに移って、テーベを中心に栄えた
※しかし、中王国の末期にシリアから遊牧民であるヒクソスが侵入してきて、
国内が一時的に混乱した
・新王国が、紀元前16世紀に栄えた
※新王国はヒクソスを追放して、シリアに進出した
・紀元前14世紀に、アメンホテプ4世(イクナートン)が
テル=エル=アマルナというところに都を定めた
→この時に、今までのような神々の崇拝を禁止して、
一つの神(アトン)だけを信仰するという改革を行った
=この改革は王が死んだことによって終わった
※この時に、信仰改革の影響で古い伝統にとらわれない写実的な美術(アマルナ美術)が
生み出された
・エジプトの文化について
・エジプト人の宗教は太陽神のラーを中心とする多神教だった
※新王国時代には、首都テーベの守護神であるアモンの信仰と結びついた
=その結果、アモン=ラーの信仰が盛んになった
・エジプト人は霊魂の不滅と死後の世界を信じてミイラを作って、
「死者の書」というものを残した
※死者の書・・エジプト人が来世にいった死者の幸福を祈って
ミイラと一緒に埋葬した絵文書のこと。
新王国時代のもので、冥界の王オシリスの前で死者が
最後の審判を受けている様子などが描かれている
・エジプト人が使っていたエジプト文字には、
神聖文字(ヒエログリフ)と民用文字(デモティック)がある
※神聖文字・・碑文や墓室、石棺などに刻まれる象形文字のこと
※民用文字・・パピルス草というものから作った一種の紙(パピルス)に
書かれる文字のこと
→これらの文字が使われていた資料として代表的なものに、
ロゼッタ=ストーンというものがある
※ロゼッタ=ストーンについて
→・ナポレオンのエジプト遠征中に、アレクサンドリア東方のロゼッタ(ラシード)というところで
発見された資料のこと
・上段に神聖文字、中段に民用文字、下段にギリシア文字の3種類で書かれている
・フランスのシャンポリオンという人が、この資料のギリシア文字を手掛かりに、
神聖文字の解読に成功した
・エジプトで測地術が発達した
→測地術は、ギリシアの幾何学(図形に関する数学)の土台になった
・太陰暦と一緒に太陽暦が用いられた
→太陽暦は、後にローマで採用されてユリウス暦という暦になった
ポイント
・エジプトの統一国家についておさえる
・エジプトの社会と政治についておさえる
・エジプトの文化についておさえる
このあたりが今回のポイントです