アテネとスパルタ・民主政への動きについて
アテネとスパルタ・民主政への動きについて考えてみます
・アテネについて
・アテネは、奴隷制度がもっとも発達した場所だった
・アテネは、個人で所有する奴隷が普通だった
→奴隷の数は、総人口の約3分の1だった
※アテネの総人口は最盛期で約25万人だった
※アテネの奴隷は多くが異民族だった
・アテネの奴隷は、以下のようにして使われた
→・家内奴隷
・農業奴隷
・手工業を行う奴隷
・銀山の採掘を行う奴隷 など
・スパルタについて
・スパルタは、アテネとならぶほどの大きな場所だった
・スパルタでは、1万人弱のドーリア系だったスパルタの市民が、
ドーリア系でなく圧倒的に多い征服された人々を
奴隷身分の農民にして、農業を行わせた
※この時の奴隷を、ヘイロータイ(ヘロット)と言う
・ヘイロータイ以外に、スパルタ市民に従う身分の人として、
商工業を行うペリオイコイ(周辺民)という人もいた
・スパルタの市民は、多くのヘイロータイの反乱を防ぐために、以下のようなことを行った
→・貨幣の使用を禁止した
・持ち分地を平等に分けた
・市民団の内部の平等を徹底して、結束を高めさせた
・市民の団結が外国からの影響で崩れないように、
他国との自由な行き来を禁止するという鎖国政策を取った
※この鎖国政策を、リュクルゴスの制と言う
・以上のような特殊な仕組みをスパルタの市民は紀元前6世紀の半ばまでに完成させた
→そのため、スパルタの市民は厳しい軍国主義的な規律を中心にして生活した
=その結果、ギリシア最強の陸軍の国を作った
・民主政への動きについて
・貿易活動が盛んになった時に、平民である農民のなかで、
余剰生産物(余った生産物)を売って、お金持ちになる人が出てきた
・当時のポリスの戦士は、武器や防具を自分の資金で用意するのが原則だった
→しかし、ポリスで金属を輸入するという出来事が起きた
→そのため、お金を持った平民が武器や防具を自分で買って、
戦いに参加できるようになった
=その結果、お金持ちの平民が多く参加する重装歩兵部隊という隊が軍隊の中心になった
※一方で、騎馬を利用する貴族の影が薄くなってきた
→以上のようにして、ポリスの政治の重要な問題だった国防の部分を
平民が行うようになっていった
=そのため、平民は参政権を主張して、貴族と対立し始めた
※ここから、ポリスでの民主制への動きが始まった
・アテネの民主制の動きと歴史的な背景について
※民主政は、アテネで最初にはっきりと見られるようになった
・アテネでは、最初に紀元前7世紀にドラコンという人によって、法律が作られた
=法律が作られたことによって、法による秩序の維持が始まった
・次に、紀元前6世紀の初めに、ソロンという人が貴族と平民の仲介役として
改革を行った
=その結果、以下のようなことが起きた
→・血のつながりでなく、財産額によって市民の参政権を認めるようになった
※このような政治スタイルを財政政治という
・借金を帳消しにして、以後、借金をした市民を奴隷として売ることを禁止した
※このことを、債務奴隷の禁止という
※その後、多くのポリスでは、僭主と呼ばれる独裁者が、
平民の支持によって勝手に政権を奪って政治を行った
=このような政治を僭主政治という
・アテネでは、ペイシストラトスという人が紀元前6世紀の半ばに
僭主政治を確立させた
→ペイシストラトスは、中小農民を保護するなどして、平民層の力を充実させた
※この時の中小農民は、後に民主政を支持する土台となった
・僭主政治の崩壊後、紀元前508年にクレイステネスという人がアテネの指導者になった
→クレイステネスは、今まで血縁を土台とした4部族制を、
地縁共同体を土台とした10部族制にするという大改革を行ったことで、
アテネの民主政の基礎を作った
・その後、僭主が出てくることを未然に防ぐために、
陶片追放(オストラシズム)の制度が作られた
※陶片追放の制度とは
→・僭主になる可能性のある人の名前を市民たちが陶器の破片(オストラコン)に
書いて投票し、全部で6000票以上集まった時に、最も多くの票を獲得した人を、
10年間国外に追放する制度のこと
ポイント
・アテネについておさえる
・スパルタについておさえる
・民主政への動きについておさえる
・アテネを中心とした民主政の流れをおさえる
このあたりが今回のポイントです