イスラーム帝国の様子と分裂について
イスラーム帝国の様子と分裂について考えてみます
・イスラーム帝国の様子について
※前提として「コーラン」は、全ての信者は平等である、
ということを説いていることをおさえておく
・征服地の新しい改宗者(マワーリー)は、ウマイヤ朝の様々な政策を
「コーラン」の教えにそむくと考えた
※アラブ人のなかにも、ウマイヤ朝による支配を批判する人達が出てきた
→その後、上のようにウマイヤ朝を批判する人々が、ムハンマドの叔父の子孫だった
アッバース家の革命運動に協力した
=この革命運動が結果的に成功し、750年にアッバース朝が開かれた
※第2代カリフのマンスールという人は、肥沃なイラク平原の中心に円形の首都である
バグダードを作って、イスラーム帝国の基礎を固めていった
・アッバース朝の時代には、以下のようなことが起きた
→・イラン人を中心とする新しい改宗者が要職につけられるようになった
・宰相が統率する形を採用した官僚制度が発達していった
=結果的に、行政の中央集権化が進んでいった
→すると、アラブ人とそれ以外の人達との関係が以下のように変わってきた
・アラブ人の特権が失われるようになっていった
・イスラーム教徒であれば、アラブ人以外でも人頭税が課せられないようになった
・アラブ人でも、征服地に土地があったら地租が課せられるようになった
・公用語はアラビア語が継続して使われた
・民族による差別は廃止された
・カリフの政治はイスラーム法(シャリーア)にもとづいて実施されるようになった
※イスラーム法について
・イスラーム法は「コーラン」を土台として9世紀ころまでに整えられた
・イスラーム法は、儀礼的規範と法的規範を中心に作られている
・儀礼的規範・・礼拝、断食、巡礼などに関係する規範のこと
・法的規範・・婚姻、相続、刑罰などに関係する規範のこと
・租税や戦争の規定などカリフ政治の基本も書かれていた
・イスラーム帝国の分裂について
・アッバース朝が作られると、ウマイヤ朝の一族がイベリア半島に逃げて、
756年にコルドバを首都とする後ウマイヤ朝を建設した
・後ウマイヤ朝は、アッバース朝に対抗する政治を行った
→その後、バグダードを中心に発達した学問や文化を積極的に吸収していった
=その結果、イベリア半島にレベルの高いイスラーム文明を作り出した
・アッバース朝は、ハールーン=アッラシードが治めている時に、黄金時代を迎えた
→しかし、ハールーン=アッラシードが亡くなってから
帝国内のエジプトやイランに独立の王朝が次々と誕生した
=そのため、カリフの主権が影響を与える範囲は次第に縮小していった
※代表的な独立王朝に、エジプトのトゥールーン朝やイランのサーマーン朝などがある
・シーア派の中でも、過激な一派だったファーティマ朝という王朝が、
10世紀の初めの北アフリカに誕生した
※ファーティマ朝は、アリーを父と、ムハンマドの娘のファーティマを母とするものの
子孫であると自称した
・ファーティマ朝は、969年にはエジプトを征服して首都のカイロを作った
→ファーティマ朝は、作り始めた時からカリフの称号を使って、
アッバース朝の権威を全面から否定した
→一方で、後ウマイヤ朝の君主も、ファーティマ朝に対抗する形でカリフの称号を使った
=結果的に、イスラーム世界は3人のカリフが並び立つという分裂した状態になった
・その後、イラン人の軍事政権だったブワイフ朝という王朝が
946年にバグダードに入城するということが起きた
→すると、カリフから大アミール(軍司令官たちのなかの第一人者のこと)に任じられた
→それと同時に、イスラーム法を施行する権限を与えられた
=以上のようにして、新しい変革の時代が始まったと言われている
ポイント
・イスラーム帝国の様子についておさえる
・イスラーム帝国の分裂についておさえる
このあたりが今回のポイントです