ティムール朝の動きについて
ティムール朝の動きについて考えてみます
・ティムール朝について
・14世紀の半ばころから、中央アジアのチャガタイ=ハン国が
東西に分裂するということが起きた
・西チャガタイ=ハン国出身のティムールという人は、1370年にティムール朝を開いた
→この時に、東と西のトルキスタンを統一した後、西に進んで
イル=ハン国が滅亡した後の領土を合わせた
※統一の間、ティムールは以下のようなことを行った
・キプチャク=ハン国や北インドに侵入した
・小アジアに攻めていって、1402年にアンカラ(アンゴラ)の戦いで
オスマン軍を倒した
・スルダンを捕虜にした
・明を倒そうとして遠征に出発したが、その途中で病死した
→ティムールが死んだ後、ティムール朝の広い領域は東西に分裂し、
ともにトルコ系ウズベク族にほろぼされた
・ティムールがイラン人の世界とトルコ人の世界を統一したことによって、
以下のようなことが起きた
→・イル=ハン国で成熟をとげたイラン=イスラーム文化が中央アジアに伝えられた
→その結果、トルコ=イスラーム文化として発展した
・首都のサマルカンドには、壮大なモスクが作られ、14~15世紀には
中央アジアの商業や学芸の中心として繁栄していった
→ティムールやその子孫は学芸を好んだ
※そのため、以下のようなことが起きた
・宮廷ではイラン文学や細密画の傑作が作られた
・すぐれたトルコ語の文学作品があらわれた
・ウルグ=ベクが建設した天文台を中心に天文学や暦法が発達していった
ポイント
・ティムール朝の動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです