オスマン帝国の成立と発展について
オスマン帝国の成立と発展について考えてみます
・オスマン帝国の成立と発展について
・13世紀の終わりに、西方に進出したトルコ人は小アジア西北部に
オスマン帝国を建設した
→その後、小アジア側のビザンツ帝国領を奪うということを行った
=そして、バルカン半島に進出し、1366年にアドリアノープル(現在のエディルネ)を
首都にした
・その後、1396年にバヤジット1世という人が、ニコポリスの戦いで
バルカン諸国とフランス・ドイツの連合軍を撃破するということが起きた
→その後は、小アジアに進出したティムールと衝突し、負けてしまった
※しかし、メフメト2世の時に国力を回復し、1453年にコンスタンティノープルを倒した
=そして、結果的にビザンツ帝国を滅ぼした
※この時にコンスタンティノープルが首都になり、以後はイスタンブルという呼び方が
一般的になった
・その後、セリム1世という人は、新しく出てきたサファヴィー朝を倒した後に
シリアへ進出した
→そして、1517年にはマムルーク朝を倒してエジプトを組み合わせた
=その結果、それまでマムルーク朝の管理下にあった両方の聖都(メッカとメディナ)の
保護権を手に入れた
※以後、オスマン帝国のスルタンというところは、カリフ政治の後継者として
スンナ派イスラーム教を守る中心の存在になった
・オスマン帝国は、スレイマン1世という人のもとで最盛期を迎えた
→スレイマン1世は、以下のようなことを行った
・サファヴィー朝から南イラクを奪った
・北アフリカに支配を広げた
・ハンガリーを征服した
・1529年にウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた
・1538年にプレヴェザの海戦というので、スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊を破って、
地中海の制海権を手中におさめた
→次に、セリム2世という人が出てきて、以下のようなことを行った
・スレイマン1世の時代の慣習にもとづいて、1569年にフランス商人に
領内での居住と通商の自由をおおやけに認めた
=これをカピチュレーションという
※カピチュレーションについて
・この特権は、のちにイギリスやオランダにも与えられた
・18世紀以降にオスマン帝国の衰退を迎えた時に、ヨーロッパの国々は
これを中東侵略の有力な手段としても使った
・レパントの海戦で負けた
・オスマン艦隊が依然として東地中海を自由に航行した
=そのため、17世紀の終わりまで、オスマン帝国とヨーロッパ諸国との力関係に
大きな変化はなかった
・オスマン帝国のスルタンというところは、強大な権力を持つ専制君主だった
※スルタンは、イスラーム法にもとづく政治を行って、州、県、郡に分かれる
整然とした行政機構を整えた
※一方で、帝国内に住むキリスト教徒やユダヤ教徒の共同体(ミッレト)には、
法で定められた自治を認め、イスラーム教徒との共存が目指された
・スルタンの軍隊は、ティマールを保持する騎士の軍団とイェニチェリ軍団とからなっていた
※ティマールとは、スルタンから与えられた土地からの徴税権を意味している
→ティマール制は、イクター制を継承した制度だと言われている
※イェニチェリ軍団は、バルカン半島の征服後に、キリスト教徒の子弟を強制的に集めて
編制した歩兵軍団だった
→そのため、スルタンの常備軍として、ヨーロッパやアジア各地の征服に活動した
ポイント
・オスマン帝国の流れと内部の様子、周辺との関係についておさえる
このあたりが今回のポイントです