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	<title>アラエス &#187; 奈良時代</title>
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	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
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		<title>奈良時代を時系列でまとめてみた</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1484</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1484#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 06 Nov 2013 16:55:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[まとめさん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[まとめ]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>

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		<description><![CDATA[まとめてみました &#160; &#160; ・平城京が出来る前の時代について　－遣唐使と東アジア－ &#160; &#160; ・平城京について　－平城京の概要と地方の政治－ &#160; &#160; ・藤原氏の行動 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1484">奈良時代を時系列でまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>まとめてみました</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・<a href="http://ahlaes.com/post/1116" target="_blank">平城京が出来る前の時代について　－遣唐使と東アジア－</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・<a href="http://ahlaes.com/post/1117" target="_blank">平城京について　－平城京の概要と地方の政治－</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・<a href="http://ahlaes.com/post/1118" target="_blank">藤原氏の行動について　－藤原氏の進出と活躍－</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・<a href="http://ahlaes.com/post/1119" target="_blank">奈良時代の生活様式と政府の政策について</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・<a href="http://ahlaes.com/post/1120" target="_blank">奈良時代の農民について</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・<a href="http://ahlaes.com/post/1121" target="_blank">天平文化について　－様々な書物・思想と美術－</a></p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1484">奈良時代を時系列でまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>天平文化について　－様々な書物・思想と美術－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1121</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1121#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 15:15:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[乾漆像]]></category>
		<category><![CDATA[六国史]]></category>
		<category><![CDATA[南都六宗]]></category>
		<category><![CDATA[現世利益]]></category>
		<category><![CDATA[神仏習合]]></category>
		<category><![CDATA[行基]]></category>
		<category><![CDATA[鎮護国家]]></category>
		<category><![CDATA[鑑真]]></category>

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		<description><![CDATA[天平文化について考えてみます &#160; &#160; ・天平文化の特徴について &#160; 　・天平文化とは 　　→・奈良時代は、中央集権的な国家の仕組みが出来て、富が中央に集まるようになった 　　　・平城京を中心 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1121">天平文化について　－様々な書物・思想と美術－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>天平文化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・天平文化の特徴について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・天平文化とは</p>
<p>　　→・奈良時代は、中央集権的な国家の仕組みが出来て、富が中央に集まるようになった</p>
<p>　　　・平城京を中心として、クオリティの高い貴族の文化が誕生した</p>
<p>　　　　＝この時代のことを、聖武天皇の時代の年号を取って、天平文化と名づけられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・天平文化の特徴</p>
<p>　　・遣唐使によって唐の進んだ文化が日本に入ってきて、当時の貴族は唐の文化を重視した</p>
<p>　　　→そのため天平文化は、唐の文化の影響を強く受けた国際色豊かな文化だった</p>
<p>　　　　という特徴があると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・仏教国家の流れについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・奈良時代は、仏教が国家の保護を受けて発展し、鎮護国家の思想が生まれた</p>
<p>　　※鎮護国家・・仏によって、国家を落ち着かせようとする考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→鎮護国家の思想によって、聖武天皇が国分寺の建立や大仏の造立などを行ったが、</p>
<p>　　　　このような動きは、国家の財政への大きな負担になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・仏教が日本で広まる時に、仏教が現世利益を求めるための手段とされた</p>
<p>　　※現世利益・・現在の世の中で受ける神や仏からの恵みのこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・神仏習合という思想が出てきた</p>
<p>　　※神仏習合・・神と仏は本来は同じであるという考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・仏教が政治に組み込まれることを嫌って、大寺院を離れて</p>
<p>　　山にこもって修行する僧が出てきた</p>
<p>　　→この僧たちの動きが、平安時代の仏教の土台になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・奈良の大寺院というところでは、様々な仏教の理論の研究が進められた</p>
<p>　　→その中で、南都六宗（三論、成実、法相、倶舎、華厳、律をまとめた呼び方）</p>
<p>　　　という枠組みが出来た</p>
<p>　　　※法相宗の義淵という人が大量の門下生を育て、華厳宗の良弁という人が</p>
<p>　　　　唐や新羅の僧から華厳を学んだ</p>
<p>　　　　＝この動きが、東大寺建立に影響を与えたと言われている</p>
<p>　　　</p>
<p>　・当時は、道慈や行基と呼ばれる人達が様々な場面で活躍した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※当時の僧侶は、宗教のだけでなく、最新の文明も知っていたという、</p>
<p>　　素晴らしい知識人だった</p>
<p>　　→そのため、玄昉のように、政治で活躍した僧侶もいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時活躍した人の一人に、唐の出身の鑑真という人がいる</p>
<p>　　※鑑真について</p>
<p>　　　・日本への渡航に何回か失敗しながらも、最終的に日本に戒律というものを伝えた</p>
<p>　　　・渡航の失敗などが原因で、最終的に鑑真は盲目になってしまった</p>
<p>　　　・鑑真は、唐招提寺という寺を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・仏教は、政府に統制された、という一面もある</p>
<p>　　→そのため、一般的に僧侶の活動は寺院の中だけ、というように限られていた</p>
<p>　　　※ただし、行基のように、人々に仏教を広めながら、用水施設を作るような</p>
<p>　　　　社会的な事業を行い、国家から取締りを受けつつも多くの人々に支持された僧もいた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※・行基は大僧正に任命されて、大仏造りに参加した　　</p>
<p>　　　　・社会事業を行うことは、仏教思想とつながっている</p>
<p>　　　　　＝そのため、光明皇后という人が平城京に悲田院（孤児や病人の収容施設）を作ったり、</p>
<p>　　　　　　施薬院（医療に関する施設）を作ったりしたことも</p>
<p>　　　　　　仏教思想とつながっていると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本では、国史（国の歴史をまとめたもの）の編纂が行われるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・国史の編纂は、天武天皇の時に始められ、「古事記」「日本書紀」として完成した</p>
<p>　　</p>
<p>　　※「古事記」と「日本書紀」について</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　・古事記（７１２年に完成）</p>
<p>　　　　→・「帝紀」と「旧辞」をもとにして、稗田阿礼という人が読んだ内容を、</p>
<p>　　　　　　太安万侶という人が筆録したもの</p>
<p>　　　　　・神話などから、推古天皇までの物語が書いてある</p>
<p>　　　　　・漢字の音と訓を使って書いてある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　・日本書紀（７２０年に完成）</p>
<p>　　　　→・舎人親王という人が中心になって編纂したもの</p>
<p>　　　　　・神の時代から持統天皇までの歴史を、天皇を中心にして書いてある</p>
<p>　　　　　・漢文の編年体というスタイルで書かれている</p>
<p>　　　　　※日本書紀の後に、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」</p>
<p>　　　　　　「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」というものが編纂された</p>
<p>　　　　　　＝これらを、日本書紀を合わせて六国史と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・古事記と日本書紀を作ると同時に、「風土記」というものが７１３年に作られた</p>
<p>　　※風土記・・それぞれの国の郷土の産品や、山川などの名前の由来をまとめた地誌のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時、貴族や官人に漢詩文の能力が必要だと考えられ、</p>
<p>　　７５１年に「懐風藻」という漢詩集が作られた</p>
<p>　　※懐風藻・・大友皇子や長屋王など、７世紀後半以降の漢詩をおさめた、</p>
<p>　　　　　　　　現存最古の漢詩集のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※８世紀半ばからの漢詩文の代表的な人に、淡海三船や石上宅嗣などがいる</p>
<p>　　　→石上宅嗣は、現在の図書館のような施設を作って、</p>
<p>　　　　学問を行う人達のために開放したと言われている</p>
<p>　　　　＝石上宅嗣が図書館のような施設のことを芸亭と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本に昔から存在する和歌というものが、様々な人によって読まれた</p>
<p>　　→そこで、７５９年に「万葉集」というものが作られた</p>
<p>　　　※万葉集・・約４５００首を収めた歌集のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　→万葉集には、東国の人たちが歌った東歌や、</p>
<p>　　　　　　　　　　　防人が歌った防人歌なども入っている</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・教育施設として、官吏を要請するために、中央に大学、地方に国学という施設を作った</p>
<p>　　※入学は、大学は貴族の子弟や朝廷で文章を書いた人が、国学は郡司の子弟が優先された</p>
<p>　　　→大学や国学で勉強する人は、卒業して、試験を受けて合格することで官人になれた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※大学にはどのような教科があったのか</p>
<p>　　　→明経道、明法道、諸道、紀伝道などがあった</p>
<p>　　　　・明経道・・「論語」などのような儒教の経典を勉強する</p>
<p>　　　　・明法道・・律令などの法律を勉強する</p>
<p>　　　　・諸道・・書、算などを勉強する</p>
<p>　　　　・紀伝道・・漢文や歴史を勉強する</p>
<p>　　　　　※その他に、陰陽、天文、医、暦なども勉強していたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・天平文化の時の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・建築の美術について</p>
<p>　　</p>
<p>　　・寺院や宮殿に礎石や瓦を使った建物が造られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的なものに、法隆寺伝法堂、唐招提寺講堂、東大寺法華堂、唐招提寺金堂、</p>
<p>　　　正倉院宝庫などがある</p>
<p>　　　→これらは、どれも均整が取れていると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・彫刻の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・表情豊かで調和が取れている仏像が多いと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・木像や金堂像に加えて、塑像や乾漆像などが作られるようになった</p>
<p>　　　※・塑像・・木を芯にして、その木に粘土を塗り固めた像のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　→代表的なものに、東大寺法華堂の日光・月光菩薩や執金剛神像などがある</p>
<p>　　　　・乾漆像・・原型を最初に作って、原型の上に麻布を何重にもして、</p>
<p>　　　　　　　　　　漆で塗り固めて、後で原型を抜き取る像のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　→代表的なものに、東大寺法華堂の不空羂索観音像、</p>
<p>　　　　　　　　　　　興福寺の釈迦十大弟子像、八部衆像などがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・絵画の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的なものに、正倉院にある鳥毛立女屏風の樹下美人図、</p>
<p>　　　薬師寺にある吉祥天像などがある</p>
<p>　　　→これらは、唐の影響を受けていて、豊満かつ華麗だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・その他の代表的なものとして、過去現在絵因果経というものがある</p>
<p>　　　→これは、釈迦の一生を描いたものとして、後の絵巻物の基礎になったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・工芸品の美術について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・代表的なものに、正倉院宝物がある</p>
<p>　　　→聖武天皇が亡くなった後に、光明皇太后が様々な品を保存していたため、</p>
<p>　　　　服や楽器など、多くの品がある</p>
<p>　　</p>
<p>　　・その他に、螺鈿紫檀五絃琵琶というものがある</p>
<p>　　　→この工芸品から、唐だけでなく西アジアや南アジアとも交流していたことがわかる</p>
<p>　　　　＝当時の宮廷での生活の文化レベルが高かったこと、国際的だったことなどが考えられる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・また、百万塔とその中に納められている百万塔陀羅尼も、素晴らしい作品だと言われている</p>
<p>　　　※百万塔陀羅尼は、世界最古の現存している印刷物だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・天平文化の特徴と流れについて押さえる</p>
<p>・古事記、日本書紀、風土記、万葉集、教育機関などを押さえる</p>
<p>・天平文化の美術を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1121">天平文化について　－様々な書物・思想と美術－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>奈良時代の農民について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1120</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1120#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 15:06:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[万葉集]]></category>
		<category><![CDATA[勧農政策]]></category>
		<category><![CDATA[口分田]]></category>
		<category><![CDATA[国司]]></category>
		<category><![CDATA[山上憶良]]></category>
		<category><![CDATA[浮浪]]></category>
		<category><![CDATA[私度僧]]></category>
		<category><![CDATA[貧窮問答歌]]></category>
		<category><![CDATA[賃租]]></category>
		<category><![CDATA[飢饉]]></category>

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		<description><![CDATA[奈良時代の農民について考えてみます &#160; &#160; ・当時の農民について &#160; 　・農民は、班給された口分田だけでなく、乗田（口分田の振りわけ以外で余った土地）や 　　寺社、貴族などの土地を借りて耕作 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1120">奈良時代の農民について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>奈良時代の農民について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の農民について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・農民は、班給された口分田だけでなく、乗田（口分田の振りわけ以外で余った土地）や</p>
<p>　　寺社、貴族などの土地を借りて耕作を行った</p>
<p>　　＝この農業の方法を、賃租と言う</p>
<p>　　　※賃租は、原則として一年間土地を借りて、そこでの収穫の５分の１を、</p>
<p>　　　　土地を借りた料金として政府や持ち主に渡した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・農民には、兵役、雑徭、運脚などの負担があったので、生活に余裕が無かった</p>
<p>　</p>
<p>　・農業は天候不順や虫による被害などに影響されてしまうので、飢饉が起こりやすかった</p>
<p>　　※国司や郡司が勧農政策（農業を推奨する政策）を行っても</p>
<p>　　　不安定な生活が続いてしまっていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※「万葉集」で山上憶良が歌った貧窮問答歌という歌は、</p>
<p>　　　　農民の貧窮な生活に共感して作られた歌だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の農民の変化について　</p>
<p>　</p>
<p>　・農民の中で、貧富の差が出てくるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・貧しい農民の動きについて</p>
<p>　　　→・口分田を捨てて、戸籍に登録された土地を離れて、他国に浮浪する人が出てきた</p>
<p>　　　　・都を造る工事現場から逃亡して、地方豪族などのところに移動する人が増えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・富裕になり、有力になった農民の動きについて</p>
<p>　　　→・農業経営を拡大することを目指して浮浪する人が出てきた</p>
<p>　　　　・私度僧（勝手に僧侶になること）が増えた</p>
<p>　　　　・自分から貴族に従う立場を取ることで、税の負担から逃れようとする人が出てきた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　→このような動きがあったので、８世紀の終わりころに以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　・調や庸などで送られる物の品質が悪くなったり、滞納が起きたりしたので、</p>
<p>　　　　国家財政に影響を与えた</p>
<p>　　　・兵士が弱くなっていったので、軍備に影響を与えることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・当時の農民を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1120">奈良時代の農民について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>奈良時代の生活様式と政府の政策について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1119</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1119#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 15:02:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[三世一身法]]></category>
		<category><![CDATA[初期荘園]]></category>
		<category><![CDATA[国司]]></category>
		<category><![CDATA[墾田永年私財法]]></category>
		<category><![CDATA[妻問婚]]></category>
		<category><![CDATA[掘立柱住居]]></category>
		<category><![CDATA[東大寺]]></category>
		<category><![CDATA[灌漑施設]]></category>
		<category><![CDATA[百万町歩開墾計画]]></category>
		<category><![CDATA[輸租田]]></category>

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		<description><![CDATA[奈良時代の生活様式と政府の政策について考えてみます &#160; &#160; ・当時の生活様式について &#160; 　・竪穴住居から、平地に建てる掘立柱住居に変わり、普及していった &#160; 　・妻問婚が主流だっ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1119">奈良時代の生活様式と政府の政策について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>奈良時代の生活様式と政府の政策について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の生活様式について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・竪穴住居から、平地に建てる掘立柱住居に変わり、普及していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・妻問婚が主流だった</p>
<p>　　※妻問婚・・男性が女性の家に通って結婚をすること</p>
<p>　　　→夫婦になった後は、どちらかの父母のもとで生活して、</p>
<p>　　　　その後に自分の家を持って生活するようになった</p>
<p>　　</p>
<p>　・女性は結婚をしても、男性に姓を合わせる必要はなく、別姓のままで良かった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・女性は、自分の財産を持っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時は、中国の家族制度を参考にしていたので、父親系の相続を重視した</p>
<p>　　※ただし、一般の人々の家族では、生活のための職業や育児などの面で</p>
<p>　　　女性の権力が強かったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の政府の政策について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時人口が増加していたので、政府は人口の増加によって</p>
<p>　　足りなくなった口分田を補うことで、税の収入を増やすことを考えた</p>
<p>　　</p>
<p>　　→そこで、７２２年に百万町歩開墾計画という計画を立てた</p>
<p>　　　※この計画によって、農民に食料と開墾のための道具を渡して、</p>
<p>　　　　１０日間の開墾を行わせたが、成果が出なかった</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→さらに、７２３年に三世一身法という法律を作った</p>
<p>　　　※この法律によって、以下のようなことが決められた</p>
<p>　　　　・自分で新しく灌漑施設を用意して、まだ開墾されていない土地を開墾した場合は、</p>
<p>　　　　　三世のあいだ土地を持つことが認められた</p>
<p>　　　　・今までの灌漑施設を使って、新しく土地を開墾した場合は、</p>
<p>　　　　　本人一代のあいだ土地を持つことが認められた</p>
<p>　　　　　→三世一身法は、一般人が開墾することで耕地を増やすことを</p>
<p>　　　　　　　目指すための法律だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そして、７４３年に墾田永年私財法という法律を作った</p>
<p>　　　※この法律によって、以下のようなことが決められた</p>
<p>　　　　・自分で開墾した土地を所有することを、永遠に認めた</p>
<p>　　　　・開墾した土地を持てる面積は、身分に合わせて制限された</p>
<p>　　　　・この法律によって持った土地は、輸租田（税を納める土地）として扱われた</p>
<p>　　　　※この法律は、７６５年に寺社以外の開墾が一度禁止されたが、</p>
<p>　　　　　７７２年に開墾と墾田の永遠保有が認められた</p>
<p>　　　　　→この法律には、政府がコントロールする土地を増やすことで、</p>
<p>　　　　　　土地による支配を強化しようとした背景があるが</p>
<p>　　　　　　貴族や地方の豪族の土地を増やす結果にもなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　※この法律によって、東大寺などの大きな寺院は、広い土地を独占して、</p>
<p>　　　　　国司や郡司と協力しながら近くの農民や浮浪人と呼ばれる人達を使って、</p>
<p>　　　　　灌漑施設を作って、大量の土地の開墾を行った</p>
<p>　　　　　＝このようにして出来た土地のことを、初期荘園という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・奈良時代の生活様式についておさえる</p>
<p>・奈良時代の政府の政策についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1119">奈良時代の生活様式と政府の政策について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>藤原氏の行動について　－藤原氏の進出と活躍－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1118</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1118#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 14:55:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[光仁天皇]]></category>
		<category><![CDATA[和気清麻呂]]></category>
		<category><![CDATA[国分寺建立の詔]]></category>
		<category><![CDATA[恵美押勝の乱]]></category>
		<category><![CDATA[文武天皇]]></category>
		<category><![CDATA[橘奈良麻呂の変]]></category>
		<category><![CDATA[橘諸兄]]></category>
		<category><![CDATA[藤原広嗣の乱]]></category>
		<category><![CDATA[鎮護国家]]></category>
		<category><![CDATA[長屋王]]></category>

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		<description><![CDATA[藤原氏の動きについて考えてみます &#160; &#160; ・藤原氏と政界の動きについて &#160; &#160; 　・８世紀の初めころに、藤原不比等という人が中心になって律令制度の完成に向けて動いていた 　　→結果 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1118">藤原氏の行動について　－藤原氏の進出と活躍－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>藤原氏の動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・藤原氏と政界の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・８世紀の初めころに、藤原不比等という人が中心になって律令制度の完成に向けて動いていた</p>
<p>　　→結果的に藤原氏が政治に進出するようになると、大伴氏などの昔から力のあった勢力は</p>
<p>　　　弱くなっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原不比等は、自分の娘である宮子を文武天皇という人と結婚させて、</p>
<p>　　その２人の子ども（後で聖武天皇になる）と、自分の娘である光明子を結婚させた</p>
<p>　　　→自分の娘たちを天皇の人たちと結婚させることで、</p>
<p>　　　　藤原氏と天皇との密接な関係を作ることを狙った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・不比等が死んだ後に、長屋王という人が右大臣になって、政治をコントロールした</p>
<p>　　→その時に、藤原氏の権力が危なくなったので、</p>
<p>　　　不比等の４兄弟の子供たち（武智麻呂、房前、宇合、麻呂）は</p>
<p>　　　藤原氏の権力を維持するために長屋王を自殺させた</p>
<p>　　　＝この出来事を、長屋王の変と言う</p>
<p>　　　　　→この出来事によって、光明子を皇后にすることが出来た</p>
<p>　　　　　　※しかし、天然痘という病気が流行して、４兄弟がどんどん死んでいったため、</p>
<p>　　　　　　　また藤原氏の勢力が弱くなった</p>
<p>　　　　　　　→この流れによって、橘諸兄という人が政治をコントロールするようになった</p>
<p>　　　　　　　　＝その時に、玄昉と吉備真備が聖武天皇に期待されて活躍した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・７４０年に、藤原広嗣という人が、玄昉と吉備真備を辞めさせることを目指して、</p>
<p>　　北九州で反乱を起こした</p>
<p>　　＝この出来事を藤原広嗣の乱という</p>
<p>　　　→この乱は、結局鎮圧されてしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※藤原広嗣の乱が起きてから数年の間、聖武天皇は恭仁、難波、紫香楽などに</p>
<p>　　　　都をどんどん移していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→以上のように、政治の状況が混乱したり、病気や飢饉が広がったりした、ということがあった</p>
<p>　　＝そこで、聖武天皇は仏教を深く信仰していたため、鎮護国家という考え方で</p>
<p>　　　国が安定することを目指そうとした</p>
<p>　　　※鎮護国家・・仏によって、国家を落ち着かせようとする考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→鎮護国家のために、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　・７４１年に国分寺建立の詔というものを出して、様々な国に</p>
<p>　　　　国分寺や国分尼寺を作らせた</p>
<p>　　　・７４３年に近江の紫香楽宮というところで、大仏造立の詔というものを出した</p>
<p>　　　　※７４５年に平城京に戻ったが、大仏造立は奈良でも続けられた</p>
<p>　　　・７５２年の、孝謙天皇（聖武天皇の娘）の時に、大仏の開眼供養という儀式が行われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・孝謙天皇の時代に、藤原仲麻呂という人が光明皇太后（光明子）という人と手を組んで、</p>
<p>　　政治の世界で勢力を伸ばした</p>
<p>　　→橘奈良麻呂（橘諸兄の子）という人が、藤原仲麻呂を倒そうとしたが、</p>
<p>　　　逆に藤原仲麻呂に倒されてしまった</p>
<p>　　　＝この戦いのことを、橘奈良麻呂の変と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・藤原仲麻呂は、淳仁天皇という人を擁護して、天皇に就かせた</p>
<p>　　→その時に藤原仲麻呂は、淳仁天皇から恵美押勝という名前をもらって、</p>
<p>　　　大量の経済的な権利を得ると同時に、様々な権力自体を独占して、</p>
<p>　　　結果的に藤原仲麻呂は太政大臣にまでなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・恵美押勝は、手を組んでいた光明皇太后が亡くなると、孤立してしまった</p>
<p>　　→さらに、孝謙太政天皇（孝謙天皇）は、自分の看病をしてくれた</p>
<p>　　　僧の道鏡をかわいがり、淳仁天皇と対立した</p>
<p>　　→そこで、淳仁天皇と恵美押勝の側が危機感を抱いたので、孝謙天皇と戦った</p>
<p>　　　＝この戦いのことを恵美押勝の乱と言う</p>
<p>　　　　※恵美押勝の乱では、孝謙天皇の側が勝った</p>
<p>　　　　　→結果的に淳仁天皇は淡路に流されたので、孝謙天皇がもう一度天皇の</p>
<p>　　　　　　地位につき、称徳天皇になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・道鏡は、称徳天皇の力によって、太政大臣禅師と法王という地位になり、権力を握って、</p>
<p>　　仏教の政治を行った</p>
<p>　　</p>
<p>　　※７６９年に称徳天皇が道鏡に自分の地位を渡そうとしたが、</p>
<p>　　　和気清麻呂という人の行動によって、渡されなかった</p>
<p>　　　→九州の宇佐八幡神という神が、道鏡が天皇になるお告げをしたが、</p>
<p>　　　　その神の意見を聞く人になった和気清麻呂は、お告げと反対の報告をして、</p>
<p>　　　　道鏡に即位させないようにした</p>
<p>　　　　※この行動の背景には、道鏡に反対する人達がいたからだと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　＝結局、称徳天皇が亡くなった後に、道鏡は外されることになった</p>
<p>　　　　※道鏡は、追放され、そこで死んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・次の天皇には、光仁天皇（天智天皇の孫）が任命された</p>
<p>　　→光仁天皇の時代には、道鏡の仏教政治が原因で混乱してしまった政治と財政を</p>
<p>　　　立て直すことを目指した</p>
<p>　　　※光仁天皇が即位した背景には、藤原式家の藤原百川などの人達が動いた、</p>
<p>　　　　ということがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・藤原氏と政界の動きを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1118">藤原氏の行動について　－藤原氏の進出と活躍－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>平城京について　－平城京の概要と地方の政治－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1117</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1117#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 14:45:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[和同開珎]]></category>
		<category><![CDATA[多賀城]]></category>
		<category><![CDATA[平城京]]></category>
		<category><![CDATA[本朝十二銭]]></category>
		<category><![CDATA[朱雀大路]]></category>
		<category><![CDATA[条坊制]]></category>
		<category><![CDATA[蓄銭叙位令]]></category>
		<category><![CDATA[阿倍比羅夫]]></category>
		<category><![CDATA[隼人]]></category>
		<category><![CDATA[駅制]]></category>

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		<description><![CDATA[平城京とその当時の社会について考えてみます &#160; &#160; ・平城京と奈良時代について &#160; 　・奈良時代とは・・７１０年に元明天皇という人が藤原京から奈良の平城京へ移った 　　　　　　　　　　→この [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1117">平城京について　－平城京の概要と地方の政治－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>平城京とその当時の社会について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・平城京と奈良時代について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・奈良時代とは・・７１０年に元明天皇という人が藤原京から奈良の平城京へ移った</p>
<p>　　　　　　　　　　→この後に長岡京・平安京に移るが、平城京から長岡京・平安京に</p>
<p>　　　　　　　　　　　移るまでの時代を奈良時代と言う</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　</p>
<p>　・平城京の特徴について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・条坊制というスタイルを採用している</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・中央に朱雀大路という道があり、左側に右京が、右側に左京がある</p>
<p>　　　※平城宮から見て左京と右京を決めたため、左右が逆になっている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・中央の北側に平城宮がある</p>
<p>　　　→平城宮の中に、内裏（天皇の生活の場所）、大極殿や朝堂院（政務や儀礼の場所）、</p>
<p>　　　　官庁などがある</p>
<p>　　</p>
<p>　　・それ以外の場所には、貴族・官人・庶民などの住宅、東大寺や興福寺などの寺院で</p>
<p>　　　伽藍建築などが建てられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・左京と右京に、官が運営する形で市（市場のこと）が作られた</p>
<p>　　　→・市は、市司という人が仕切った</p>
<p>　　　　・市では、地方からの産物や官吏への給付のための糸や布が交換されていた</p>
<p>　　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時のお金について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・７０８年に武蔵国というところから、銅が中央に送られてきたので、</p>
<p>　　　その銅を使って、和同開珎という銅銭を作った</p>
<p>　　　　※和同開珎の後も銅銭が作られ続け、結果的に乾元大宝という銅銭まで、</p>
<p>　　　　　国家が１２回に渡って銭貨を作った</p>
<p>　　　　　＝この１２回分の銭貨をまとめて、本朝十二銭と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・政府は和同開珎を広めようとして、蓄銭叙位令という法律を作った</p>
<p>　　　→京や畿内では銭貨が使われたが、それ以外の場所では物々交換が主流だったので、</p>
<p>　　　　失敗に終わった</p>
<p>　　　　※蓄銭叙位令・・ある一定の額を蓄えて政府に渡せば、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　その人に位を与えるとした法律のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　　→銭貨が広がることを狙ったが、使わずにため込む人が増え、</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　８００年にこの法律を廃止した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の交通制度について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・都を中心に七道に向かうための道として、官道という道路が作られ、</p>
<p>　　　駅制（約１６キロごとに駅家という施設を置く制度）が用いられた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・地方で、郡家と郡家をつなぐ道（伝路）が作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の国と地方の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・地方の国府に、政庁（政務や儀礼を行う場所）や、様々な事務を行うための役所、</p>
<p>　　国司の居館などが設置された</p>
<p>　　→その地方の政治や経済の中心として、役割を担っていた</p>
<p>　　　※国府の近くには、国分寺という寺も建てられていたため、</p>
<p>　　　　文化も中心的な役割を担った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→郡家も国府に似たような施設を持っていて、郡の中心的な役割だった</p>
<p>　　　※郡家の調査から、郡の中では文書を中心として行動していたと考えられている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・政府が、各地に灌漑の技術を使って、耕地を拡大させようとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・鉱物資源のために、長門の銅や陸奥の金などを採掘する、ということも行っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・養蚕や織物の技術を持った人を各地に派遣することで、各地で税のための</p>
<p>　　より良い特産品を作らせた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中央政府は、自分達の権力がより広がるように、日本の地方にも工夫するようになった</p>
<p>　　→・蝦夷（東北の人々）のところに対しては、渟足柵、磐舟柵という城柵を作って、</p>
<p>　　　　高句麗の攻撃から守ろうとした</p>
<p>　　　・斉明天皇の時代に、阿倍比羅夫という人が蝦夷のほうに派遣され、</p>
<p>　　　　秋田などの北方の蝦夷とも関係を結んだ</p>
<p>　　　・軍事的な制圧のための政策を行った</p>
<p>　　　　＝中央に従う蝦夷は優遇し、反抗する蝦夷は武力を使って抑えつける、</p>
<p>　　　　　という政策を取った</p>
<p>　　　・日本海側に出羽国、秋田城、太平洋側に陸奥の国府として多賀城が作られた</p>
<p>　　　　→出羽や陸奥などの政治や蝦夷の対策をするための拠点として作られた</p>
<p>　　　・隼人（南九州の人々）という人達の地域には、大隅国という国が設置されたため、</p>
<p>　　　　薩南諸島などの人々も政府と交流するようになっていった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　　※上のような状況でも、政府が支配した場所は日本海沿いの拠点でとどまっていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・平城京と奈良時代について押さえる</p>
<p>・平城京の特徴、お金、交通制度、当時の国と地方の動きについてを押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1117">平城京について　－平城京の概要と地方の政治－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>平城京が出来る前の時代について　－遣唐使と東アジア－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1116</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1116#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 14:38:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[足利]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[吉備真備]]></category>
		<category><![CDATA[唐]]></category>
		<category><![CDATA[安禄山・史思明の乱]]></category>
		<category><![CDATA[渤海]]></category>
		<category><![CDATA[犬上御田鍬]]></category>
		<category><![CDATA[玄昉]]></category>
		<category><![CDATA[菅原道真]]></category>
		<category><![CDATA[藤原仲麻呂]]></category>
		<category><![CDATA[遣唐使]]></category>
		<category><![CDATA[阿倍仲麻呂]]></category>

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		<description><![CDATA[平城京が出来る前の時代について、遣唐使と東アジアについて考えてみます &#160; &#160; ・遣唐使と東アジア地域について &#160; 　・６１８年に隋から唐になり、唐が領土をどんどん拡大していった 　　→そのた [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1116">平城京が出来る前の時代について　－遣唐使と東アジア－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>平城京が出来る前の時代について、遣唐使と東アジアについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・遣唐使と東アジア地域について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・６１８年に隋から唐になり、唐が領土をどんどん拡大していった</p>
<p>　　→そのため、周りの国々とも交流するようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本は、犬上御田鍬をはじめとして遣唐使を送り、ほぼ２０年に１度の割合で派遣された</p>
<p>　　※・遣唐使は、８９４年に菅原道真という人が遣唐使を停止する意見を出したため、派遣されなくなった</p>
<p>　　　・当時は船を造ったり、航海をしたりする技術がまだ弱かったため、海の上で遭難してしまうことも多かった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・遣唐使によって、政治制度や文化などが入ってきたと言われている</p>
<p>　　→中でも、唐から帰ってきた玄昉と吉備真備という人達は、聖武天皇に期待されて、政治の分野でも活躍した</p>
<p>　　　※玄昉や吉備真備と一緒に唐に行った人に、阿倍仲麻呂という人がいる</p>
<p>　　　　→阿倍仲麻呂は、当時の唐の皇帝だった玄宗という人に期待されて、唐で位の高い官職につき、</p>
<p>　　　　　詩人の王維や李白などとも交流をしたが、結果的に唐で死んでしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本は新羅とも交流があったが、日本は新羅を日本に従わせようとすることを考えていた</p>
<p>　　※唐で安禄山・史思明の乱という乱が起きて唐が混乱している時に、藤原仲麻呂が新羅を攻撃することを考えたが、</p>
<p>　　　結局は攻撃しなかった</p>
<p>　　　→唐と新羅は仲の良い関係にあり、仲良しの一方が混乱している時に、もう一方を攻撃すれば良いのではないか</p>
<p>　　　　という考えがあったのではないか、と言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・７世紀の終わりに、靺鞨族と言われる人達や元々高句麗だった人達などを中心に渤海という国が出来た</p>
<p>　　→渤海は、唐・新羅と対抗の関係にあったので、同じような対抗の関係にある日本と交流した</p>
<p>　　→日本も渤海と積極的に交流した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・遣唐使と東アジアについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
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