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	<title>アラエス &#187; ナポレオン</title>
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	<item>
		<title>ナポレオンによるヨーロッパへの影響とウィーン体制の誕生の理由と流れ</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2538</link>
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		<pubDate>Tue, 06 May 2014 16:53:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[コイングラム]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史中期]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン会議]]></category>
		<category><![CDATA[ウィーン体制]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン]]></category>
		<category><![CDATA[メッテルニヒ]]></category>
		<category><![CDATA[七月革命]]></category>
		<category><![CDATA[大陸封鎖令]]></category>
		<category><![CDATA[百日天下]]></category>
		<category><![CDATA[第2回対仏大同盟]]></category>
		<category><![CDATA[第一帝政]]></category>
		<category><![CDATA[統領政府]]></category>

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		<description><![CDATA[フランス革命を終わらせたのは、ナポレオン＝ボナパルトという人だった &#160; ※どうやってナポレオンはフランス革命を終わらせたのか ・1799年に、第2回対仏大同盟によって、フランスが危機におちいっていた →そこで、 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2538">ナポレオンによるヨーロッパへの影響とウィーン体制の誕生の理由と流れ</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>フランス革命を終わらせたのは、<strong>ナポレオン＝ボナパルト</strong>という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※どうやってナポレオンはフランス革命を終わらせたのか</p>
<p>・1799年に、<strong>第2回対仏大同盟</strong>によって、フランスが危機におちいっていた</p>
<p>→そこで、ナポレオンはエジプトから帰国して、<strong>総裁政府</strong>を倒した</p>
<p>＝この総裁政府を倒した動きを、<strong>ブリュメール18日のクーデター</strong>という</p>
<p>→ナポレオンは、ブリュメール18日のクーデターによって、「革命は終わった」と宣言した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ナポレオンは、フランス革命を終わらせた後、様々なことを行った</p>
<p>・自ら第一統領となって<strong>統領政府</strong>を作った</p>
<p>・フランス銀行を作った</p>
<p>・徴兵制による国民軍を作った</p>
<p>・ナポレオン法典を作って、所有権の確定などを行った</p>
<p>＝このような革命の成功を背景に、1804年にナポレオンが国民投票によって皇帝になった</p>
<p>（＝これを<strong>第一帝政</strong>という）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>第一帝政の後、ナポレオンは以下のようなことを進めた</p>
<p>・1806年に神聖ローマ帝国を消滅させた</p>
<p>・ロシア以外の大陸全体を支配した</p>
<p>・イギリスを経済封鎖によって服従させた</p>
<p>・フランスの産業を保護するために<strong>大陸封鎖令</strong>を出した</p>
<p>・新たな支配地でナポレオン法典を施行した</p>
<p>＝これらの結果、市民革命の考え方がヨーロッパの国々に広まっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※ただし、途中でロシアが大陸封鎖令を破るということが起きた</p>
<p>→そのため、ナポレオンはロシアを倒そうとして、1812年に<strong>ロシア遠征</strong>を行った</p>
<p>※しかし、ナポレオンはロシア遠征でロシアに負ける、ということが起きた</p>
<p>→この出来事によって、ナポレオンの支配に不満を持っていた人たちがナポレオンに対して戦争を起こした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>＝結果的に、1813年の<strong>ライプツィヒの戦い</strong>でナポレオンは負けてエルバ島に流された</p>
<p>※一時は脱出して政権を握ったものの、再び敗れ、セントヘレナ島に流された</p>
<p>＝これを<strong>百日天下</strong>という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ナポレオンの没落後は、フランス革命後の変化に対処するため、<strong>ウィーン会議</strong>が開かれた</p>
<p>※ウィーン会議は、オーストリア外相の<strong>メッテルニヒ</strong>という人を中心に、ヨーロッパ諸国の代表が集まって行われた</p>
<p>＝会議によって、<strong>正統主義</strong>にもとづき、各国を革命以前の状態に戻すことを決めた</p>
<p>※正統主義・・革命前の君主に支配権を認める考え方のこと</p>
<p>＝さらに、秩序維持のために<strong>神聖同盟</strong>と<strong>四国同盟</strong>が結ばれた</p>
<p>→この結果成立した国際秩序を<strong>ウィーン体制</strong>という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※ただし、ウィーン体制による、王政を中心としたフランスで、1830年に再び国民が立ち上がった</p>
<p>→その結果、王族で自由主義的な<strong>ルイ＝フィリップ</strong>という人を王位にした</p>
<p>＝この革命を、<strong>七月革命</strong>という</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2538">ナポレオンによるヨーロッパへの影響とウィーン体制の誕生の理由と流れ</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>「有機的国家論」―納税は「義務」という考え方</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/2356</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/2356#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 03 Jan 2014 03:54:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ルーブル]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[世界史全般]]></category>
		<category><![CDATA[アドルフ・ワーグナー]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン]]></category>
		<category><![CDATA[ヘーゲル]]></category>
		<category><![CDATA[ロレンツ・フォン・シュタイン]]></category>
		<category><![CDATA[上からの改革]]></category>
		<category><![CDATA[法の哲学]]></category>

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		<description><![CDATA[  以前は「原子論的・機械論的国家論」についてまとめました。↓↓↓ &#160;  「原子論的・機械論的国家論」―納税は「権利」という考え方 &#160; これと対照的な国家論が「有機的国家論」です。これについて、簡単な [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2356">「有機的国家論」―納税は「義務」という考え方</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p align="center"> </p>
<p>以前は「原子論的・機械論的国家論」についてまとめました。↓↓↓</p>
<p>&nbsp;</p>
<p> <a href="http://ahlaes.com/post/2348">「原子論的・機械論的国家論」―納税は「権利」という考え方</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これと対照的な国家論が「有機的国家論」です。これについて、簡単な復習を踏まえながら進めていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・税金を納めることは「権利」なのか、「義務」なのか</p>
<p>「権利」という認識の国：イギリス</p>
<p>⇒国家による生命と財産の保護に対する対価。「原子論的・機械論的国家観」</p>
<p>「義務」という認識の国：ドイツ(19C)</p>
<p>⇒国家こそが社会秩序の形成者である、という考え方。「有機的国家観」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>○個人と国家は運命共同体</p>
<p>・「有機的国家観」が出てきた背景</p>
<p>⇒ドイツが後進国だったことが挙げられる。イギリスの「原子論的・機械論的国家観」というのは、豊かな経済基盤に支えられた市民社会が十分に成長していたからこそ出てきた考え方であった。他方の19Cドイツは、封建勢力が強固で、イギリスほど成熟していなかった。しかも、無数の領邦国家が分立して統一国家の体裁をなしておらず、ナポレオンの侵攻にもなすすべなく敗退する状態であった。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>☆こうした社会情勢の中で、イギリスやフランスといった先進国家に対抗するためには、国家がイギリスとは異なる役割が必要だったのです。つまり、先進国家に追いつくために、国家が社会の形成者となる必要があったのです。重要な考え方で言えば「上からの改革」です。これは先進国に追いつけ追い越せをやっていた日本も似たようなあり方です。日本は未だにこのあり方を引きずっている感はありますが・・・上からの改革、下からの改革については↓↓↓</p>
<p>&nbsp;</p>
<p> <a href="http://ahlaes.com/post/556">近代化の2つのパターン</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>☆若干話が逸れました。要は、ドイツ的国家論では、全体利益あってこその私的利益であり、全体が損なえば個人も損なうという、運命共同体と捉えられていたということです。こうした「有機的国家論」は、ドイツ的な租税理論や納税を「義務」とみなす倫理観に大きな影響を与えました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>では、こうした国家観を構築したのは誰なのでしょうか。ヘーゲルです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・『法の哲学』</p>
<p>ヘーゲルは、社会の成り立ちを「家族」「市民社会」「国家」という3項関係から説明しました。以下、主著『法の哲学』にそって、その概略を見ていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・家族から市民社会への移行</p>
<p>まず、ヘーゲルによれば、「家族」は最も自然的な社会単位であり、最小単位だという。家族に属するものはまだ独立した一個人ではなく、あくまで家族の構成員。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、子供はいつまでも家族の中にとどまっているわけではなく、そのうち自立する。この自立した個人は、今まで家族と生活することで得られていた生活の糧を、自立によって外部から調達せざるを得なくなる。</p>
<p>⇒市場を通じた交換社会の成員となることで、自らの生存を確保するようになる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>☆これが家族から市民社会への移行です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・市民社会の3つの契機</p>
<p>市民社会には相互依存性という特徴があるという</p>
<p>⇒分業が進み、誰もが自分の生活のすべてを自分のみでは面倒見きれないということ。</p>
<p>分業については↓↓↓</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1476"> 社会的分業と市場の成立</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ヘーゲルによれば、この市民社会には3つの契機があるといいます。以下、下記諸富参考文献、62-63頁。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>①個々人の労働によって、また他のすべての人々の労働と欲求の満足によって、欲求を媒介し、個々人を満足させること―欲求の体系。</p>
<p>②この体系に含まれている自由という普遍的なものの現実性、すなわち所有を司法活動によって保護すること</p>
<p>③右の両体系の中に残存している偶然性に対してあらかじめ配慮すること、そして福祉行政と職業団体によって、特殊的利益を一つの共同的なものとして配慮し管理すること。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ピンときませんよね。もう少し簡単に言うと・・・</p>
<p>①は各市民がお互いに依存しあいながらも、自身の欲求を満たそうとする社会のメカニズムのこと。=市民社会の原理</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかしこの①の欲求の体系は、②で言われているように、市民が自分の欲求を自由に表明し、行動できることが保護されている限りにおいて初めて機能するということ。</p>
<p>=<b>市民社会は国家なくして機能しない</b>ということ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※このあたりは「法の支配」などとも関係してきます。法によって経済的自由権が認められて初めて経済は発展するということ。↓↓↓</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1991" class="broken_link">近代法：英米法と大陸法</a></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2068" class="broken_link">近代経済の性質―アダム・スミスを軸に</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>③は要するに「格差」のことを言っています。自由な経済活動の結果として生じる格差を、「福祉行政」と「職業団体」を通じて是正し、調整することを国家の役割として与えた。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>☆☆☆☆☆</p>
<p>こうしてヘーゲルは、欲求の体系としての市民社会という論理から、国家はなくてはならないという必然性を導き出しました。これはロックらに代表される社会契約論から導き出される国家像とは決定的に異なります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>納税が義務という部分に答えきれていない感じですが、これについてはヘーゲルの考え方を踏襲・昇華させた学者、ロレンツ・フォン・シュタインとアドルフ・ワーグナーの議論を見るともう少し見えてきます。これについては改めて。</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2356">「有機的国家論」―納税は「義務」という考え方</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>ナポレオンによる大陸の支配について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/962</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/962#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 19:45:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[チューペット]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史中期]]></category>
		<category><![CDATA[アウステルリッツの三帝会戦]]></category>
		<category><![CDATA[ティルジット条約]]></category>
		<category><![CDATA[トラファルガーの戦い]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン＝ボナパルト]]></category>
		<category><![CDATA[ライプチヒの戦い]]></category>
		<category><![CDATA[ライン同盟]]></category>
		<category><![CDATA[大陸封鎖令]]></category>
		<category><![CDATA[百日天下]]></category>
		<category><![CDATA[第3回対仏大同]]></category>

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		<description><![CDATA[ナポレオンによる大陸の支配について考えてみます &#160; &#160; ・ナポレオンの大陸支配について &#160; &#160; 　・１８０５年に、イギリス、ロシア、オーストリアなどが、第３回対仏大同盟が結成された [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/962">ナポレオンによる大陸の支配について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>ナポレオンによる大陸の支配について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・ナポレオンの大陸支配について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８０５年に、イギリス、ロシア、オーストリアなどが、第３回対仏大同盟が結成された</p>
<p>　　→１８０５年１０月には、ネルソンという人が引き連れるイギリス海軍が、</p>
<p>　　　フランス海軍をトラファルガーの戦いという戦いで破るということが起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方でナポレオンは、ヨーロッパ大陸でオーストリアとロシアの連合軍を</p>
<p>　　アウステルリッツの三帝会戦で破った</p>
<p>　　→その後１８０６年に、ナポレオン自身の保護のもとで、西南ドイツ諸国を合わせて</p>
<p>　　　ライン同盟を結成した</p>
<p>　　　※この時オーストリアの皇帝は、神聖ローマ帝国皇帝の地位を放棄して、帝国が消滅した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→さらにナポレオンは、プロイセンとロシアの連合軍を倒して、</p>
<p>　　　１８０７年にティルジット条約を結ばせた</p>
<p>　　　※この時に、ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　＝結果的に、ナポレオンはヨーロッパ大陸のほとんどをその支配下に置いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・また、ナポレオンは１８０６年にベルリンで大陸封鎖令というのを発した</p>
<p>　　→この令によって、様々な国にイギリスと通商することを禁止した</p>
<p>　　　＝この令によって、フランスの産業のために大陸の市場を独占しようとした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ナポレオンは、自分の兄弟をスペイン王やオランダ王などの地位につけた</p>
<p>　　→その裏で、１８１０年にナポレオンは、オーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して</p>
<p>　　　家門の地位を高めるなど、勢力がどんどん高まっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ナポレオンは、封建的な圧政からの解放をかかげて征服していたため、</p>
<p>　　征服されていた土地では改革が促されていた</p>
<p>　　※一方では、外国の支配に反対して民族意識が成長していた</p>
<p>　　　→そのため、外国で以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　　・スペインが反乱を起こした</p>
<p>　　　　・プロイセンで、シュタインやハルデンベルクなどが農民解放などの改革を行った</p>
<p>　　　　　＝この改革をプロイセン改革と言い、後にプロイセンが</p>
<p>　　　　　　ドイツ統一の中心となる基礎だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ロシアで、大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出するということが起きた</p>
<p>　　→すると、ナポレオンは１８１２年に大軍を引き連れてロシアに遠征した</p>
<p>　　　※しかし、この遠征は失敗に終わった</p>
<p>　　　　＝この遠征の失敗をきっかけに、諸国が解放戦争に向かうようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そのため、ライプチヒの戦い（諸国民戦争）という戦いでナポレオンを破る</p>
<p>　　　ということが起きた</p>
<p>　　　＝その結果、１８１４年にパリを占領するということが起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・諸国民戦争の後、ナポレオンは退位してエルバ島に流された</p>
<p>　　→この後、ルイ１６世の弟のルイ１８世が王位についてブルボン朝が復活する</p>
<p>　　　ということが起きた</p>
<p>　　　</p>
<p>　・また、１８１５年の３月に、ナポレオンはパリに戻って皇帝として復活した</p>
<p>　　→しかし、６月にワーテルローの戦いでナポレオンが負けるということが起きた</p>
<p>　　　＝その結果、ナポレオンは南大西洋のセントヘレナ島に流された</p>
<p>　</p>
<p>　　※１８１５年にナポレオンがパリに入城してから、</p>
<p>　　　ナポレオンが２度目の退位をするまでを、「百日天下」という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・ナポレオンの大陸支配を中心とした動きをおさえる</p>
<p>・ナポレオンの衰退の流れをおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/962">ナポレオンによる大陸の支配について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>皇帝ナポレオンとその誕生について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/961</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/961#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 19:39:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[チューペット]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代ヨーロッパ史中期]]></category>
		<category><![CDATA[アミアンの和約]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン法典]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン＝ボナパルト]]></category>
		<category><![CDATA[ブリューメル18日のクーデタ]]></category>
		<category><![CDATA[ロゼッタ＝ストーン]]></category>
		<category><![CDATA[第2回対仏大同盟]]></category>
		<category><![CDATA[第一帝政]]></category>
		<category><![CDATA[統領政府]]></category>
		<category><![CDATA[総裁政府]]></category>

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		<description><![CDATA[皇帝ナポレオンとその誕生について考えてみます &#160; &#160; ・ナポレオンの誕生について &#160; &#160; 　・ジャコバン派が没落した後、穏健共和派が有力になるということが起きた 　　→その後、１７ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/961">皇帝ナポレオンとその誕生について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>皇帝ナポレオンとその誕生について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・ナポレオンの誕生について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ジャコバン派が没落した後、穏健共和派が有力になるということが起きた</p>
<p>　　→その後、１７９５年に制限選挙制を復活させた新しい憲法によって、</p>
<p>　　　５人の総裁を中心とした政府が誕生した</p>
<p>　　　＝この政府を総裁政府という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・総裁政府の誕生後も、社会不安は続いた</p>
<p>　　※代表的な例に、１７９６年５月に、私有財産の廃止を提唱して政府の転覆を計画した</p>
<p>　　　バブーフという人などが逮捕された、という出来事がある</p>
<p>　　　</p>
<p>　　→社会不安に対し、革命ですでに利益を得た有産市民層や農民が社会の安定を願った</p>
<p>　　　＝そこで、混乱を鎮める力を持った軍事の指導者として、</p>
<p>　　　　ナポレオン＝ボナパルトという人に期待をかけた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ナポレオンは、以下のようなことを行った</p>
<p>　　→・１７９６年に、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破った</p>
<p>　　　　→破ったことで、軍隊と国民のあいだで名声を高めていった</p>
<p>　　　・１７９８年に、敵国であるイギリスとインドの連絡を断つ目的で、エジプトに遠征した</p>
<p>　　　　※ロゼッタ＝ストーンは、エジプト遠征中の１７９９年に発見された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７９９年に、イギリスがロシアやオーストリアなどと</p>
<p>　　第２回対仏大同盟を結ぶということが起きた</p>
<p>　　→すると、第２回対仏大同盟が、フランス国境を脅かし、総裁政府が</p>
<p>　　　国民の支持を失うということが起きた</p>
<p>　　　＝そこで、エジプト遠征から帰国したナポレオンは、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　　・１７９９年１１月に総裁政府を倒した</p>
<p>　　　　・３人の統領からなる統領政府を作った</p>
<p>　　　　・ナポレオン自身が第一統領として事実上の独裁権を握った</p>
<p>　　　　　※これら一連の出来事を、ブリューメル１８日のクーデタという</p>
<p>　　　　　　＝このクーデタの結果、１０年間に及んだフランス革命が終了した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と、１８０１年に和解した</p>
<p>　　→１８０２年に、イギリスとも講和した</p>
<p>　　　※このイギリスとの講和を、アミアンの和約という</p>
<p>　　　＝上のような講和によって、国の安全を確保した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ナポレオンは、内政の面で以下のようなことを行った</p>
<p>　　→・フランス銀行を作って、財政の安定をはかった</p>
<p>　　　・商工業を振興した</p>
<p>　　　・公教育の制度を誕生させた</p>
<p>　　　・１８０４年３月に、革命の成果を定着させる民法典（ナポレオン法典）を公布した</p>
<p>　　　　※ナポレオン法典の内容</p>
<p>　　　　　→・私有財産の不可侵</p>
<p>　　　　　　・法の前の平等</p>
<p>　　　　　　・契約の自由　　など</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・ナポレオンは、１８０２年に終身統領になった</p>
<p>　　→その後、ナポレオンは１８０４年の５月に、国民投票で圧倒的な支持をうけて、</p>
<p>　　　皇帝に即位した</p>
<p>　　　※この時にナポレオンは、ナポレオン１世と称するようになった</p>
<p>　　　　＝この時に誕生した政治体制を、第一帝政という</p>
<p>　　　　　　</p>
<p>　</p>
<p>ポイント</p>
<p>・ナポレオンの概要をおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/961">皇帝ナポレオンとその誕生について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<title>近代のアラブ民族の動きについて</title>
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		<pubDate>Mon, 14 Oct 2013 07:31:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[大きな魚]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[近代アジア史後期]]></category>
		<category><![CDATA[アラブ民族]]></category>
		<category><![CDATA[ウラービー]]></category>
		<category><![CDATA[エジプト]]></category>
		<category><![CDATA[エジプト総督]]></category>
		<category><![CDATA[エジプト＝トルコ戦争]]></category>
		<category><![CDATA[オスマン帝国]]></category>
		<category><![CDATA[シリア]]></category>
		<category><![CDATA[ナポレオン]]></category>
		<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[ムハンマド＝アリー]]></category>
		<category><![CDATA[ワッハーブ派]]></category>

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		<description><![CDATA[近代のアラブ民族の動きについて &#160; &#160; ・アラブ民族の動きについて &#160; 　 　・１８世紀の半ばころに、イブン＝アブドゥル＝ワッハーブという人が、 　　アラビア半島でイスラーム教の改革を唱える [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/900">近代のアラブ民族の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>近代のアラブ民族の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・アラブ民族の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・１８世紀の半ばころに、イブン＝アブドゥル＝ワッハーブという人が、</p>
<p>　　アラビア半島でイスラーム教の改革を唱えるという、ワッハーブ派の運動を起こした</p>
<p>　　</p>
<p>　　→ワッハーブ派は、以下のような運動を起こした</p>
<p>　　　・ワッハーブ派は、中央アラビアの豪族であるサウード派と結んで</p>
<p>　　　　ワッハーブ王国を建設した</p>
<p>　　　　※ワッハーブ派は、のちにリヤドに首都を定めた</p>
<p>　　　・ワッハーブ派は、イラン人やトルコ人がもたらした神秘主義と聖者崇拝によって、</p>
<p>　　　　イスラーム教は堕落したとみなした</p>
<p>　　　　＝そのため、預言者ムハンマドの最初の教えに帰れと説いた</p>
<p>　　　　　※この考え方は、現代まで続くイスラーム改革運動の始まりであり、</p>
<p>　　　　　　トルコ支配に反抗するアラブ民衆の間に受け入れられた</p>
<p>　　　　　　→結果的に、アラブ民族のめざめをうながすきっかけとなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・シリアでは、１９世紀の初めにアラブのキリスト教徒知識人の間に、</p>
<p>　　アラブ文化の復興運動というのが起こった</p>
<p>　　→この活動は、言語を通じてアラブの民族意識を高めることになった</p>
<p>　　　＝結果的に、１９世紀の終わり以降に展開するアラブ民族主義運動への道を</p>
<p>　　　　開いたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７９８年に、フランスがナポレオンの遠征によってエジプトを占領するということが起きた</p>
<p>　　→しかし、その後にフランスがイギリスとオスマン帝国の連合軍に負けるということが起きた</p>
<p>　　　＝そのため、オスマン帝国の主権がここで回復した</p>
<p>　　　　※しかし、１８０５年にこの混乱に乗っかってムハンマド＝アリーという人が</p>
<p>　　　　　エジプトの支配者になった</p>
<p>　　　　　＝そして、１８０６年にムハンマド＝アリーはエジプト総督としての地位を</p>
<p>　　　　　　オスマン帝国から獲得した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　※ムハンマド＝マリーが行なったことについて</p>
<p>　　・旧勢力のマムルークを一掃した</p>
<p>　　・フランスの援助によって近代的な陸海軍を創設した</p>
<p>　　・造船所、官営工場、印刷所を建設と、教育制度の改革を行った</p>
<p>　　　＝上の３つのようなことを行って、エジプトの近代化を強力に推し進めていった</p>
<p>　　・オスマン帝国の求めに応じてアラビア半島に出兵し、</p>
<p>　　　１８１８年に一時ワッハーブ王国を倒した</p>
<p>　　・シリアの領有を求めたが、それが拒否された</p>
<p>　　　→すると、２度にわたってオスマン帝国とたたかい勝利をおさめた</p>
<p>　　　　＝この戦いをエジプト＝トルコ戦争という</p>
<p>　　　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※エジプト＝トルコ戦争について</p>
<p>　　・この戦いで、フランスがエジプトを、ロシアがオスマン帝国を援助した</p>
<p>　　　→そのため、この戦いにイギリスが関わるようになってきた</p>
<p>　　　　＝結果的に１８４０年のロンドン会議で、ムハンマド＝アリーは、</p>
<p>　　　　　オスマン帝国スルタンの宗主権のもとにエジプト・スーダンの総督の地位を</p>
<p>　　　　　世襲することを認められるにとどまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・エジプトが、近代化を急ぎ、戦争によって莫大な債務を抱えるということが起きた</p>
<p>　　→そこで、１８６０年代からイギリスとフランスの財務管理下に置かれ、</p>
<p>　　　内政の支配も受けるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・エジプトが外国に支配されることに対して、ウラービー（オラービー）という人が</p>
<p>　　１８８１～８２年に反乱した</p>
<p>　　→すると、イギリスは単独でエジプトを軍事占領して、事実上これを保護下においた</p>
<p>　　　※しかし、立憲制の確立を求めて、ウラービー運動は</p>
<p>　　　　「エジプト人のためのエジプト」をスローガンにした</p>
<p>　　　　＝結果的にウラービー運動は、その後のエジプト民族主義運動の原点になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・近代のアラブ民族の動きについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/900">近代のアラブ民族の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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