織田信長について -織田信長の統一までの流れと動き-
織田信長について考えてみます
・織田信長について
・戦国大名の中で、全国を統一するという考えを持ち、最初に実行した人がいた
=その人が、尾張の織田信長という人だった
・織田信長は、1560年に、尾張で今川義元という人を倒した
=この戦いを、桶狭間の戦いという
・織田信長は、1567年に、美濃の斉藤氏を倒して、岐阜城に移った
→そこで、「天下布石」という印判を使い、武力で天下統一を行う意志を示した
・織田信長は、1568年に、畿内を追い出されていた足利義昭という人に近づいて
京に入った
→そこで、足利義昭を将軍職にして、全国統一を本格的に始めた
・織田信長は、1570年に、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を倒した
=この戦いを姉川の戦いという
・織田信長は、1571年に、比叡山延暦寺の焼打ちを行った
=この焼打ちによって、織田信長が強力だった宗教の力を従わせたと言われている
・1573年に、将軍の権力を回復させることを目的として、足利義昭が織田信長に反抗した
→そこで、織田信長が足利義昭を京都から追い出した
=この動きによって、織田信長が室町幕府を倒した
・織田信長は、1575年に三河という場所で鉄砲を使った戦い方で、
騎馬戦を得意とする武田勝頼の軍を倒した
=この戦いを長篠の戦いと言う
・織田信長は、1576年に、近江に安土城という城を建てた
・織田信長の最大の敵は、石山本願寺を頂点として、全国の浄土真宗の寺院や寺内町に
住みながら、織田信長の支配に抵抗した一向一揆だった
→織田信長は、1574年に伊勢長島の一向一揆を倒して
1575年に越前の一向一揆を倒した
=この流れの後に、織田信長は1580年に石山(大阪)の本願寺を
服従させることに成功した
※石山本願寺を屈伏させるまでの流れ
・本願寺の顕如(光佐)という人が、様々な国にいる門徒(浄土真宗の信者)に、
織田信長と戦う事を呼び掛けて、軍隊を結成した
→しかし、1580年に負けて、石山を出て行った
=このような、織田信長と門徒との戦いを石山戦争と言う
・織田信長は、この後も自分の軍事力を高めていき、優秀な軍事の指揮官として、
どんどん戦国大名を倒した
→それと同時に、今までの伝統的な政治・経済の秩序や権力を取り払って、
関所を取り除くなどのような、新しい支配の体制を作ることを目指した
・織田信長は、当時栄えていた堺という都市を、
武力を使って織田信長に従わせて、直轄領にした
→このような行動を取ることで、畿内の経済力を自分のものにした
・安土の城下町に楽市令を出して、商工業者への自由な営業の活動を認めた
→楽市令などを始めとして、都市への新しい政策を出していった
・織田信長が死ぬまでの流れ
→・織田信長は、以上のようにして京都を制圧して、様々な地方を支配していた
=そのため、織田信長の全国統一が完成間近にまでなったと言われている
・しかし、1582年に織田信長が毛利氏を倒そうとしている途中に、
織田信長が京都の本能寺で滞在していたら織田信長の部下だった明智光秀という人が
織田信長を襲うという出来事が起きた
=この出来事を本能寺の変と言う
→この出来事によって、織田信長は自殺した
ポイント
・織田信長の動きと流れを押さえる
このあたりが今回のポイントです
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いお