江戸幕府の誕生について
江戸幕府の誕生について考えてみます
・江戸幕府が出来るまでの流れについて
・徳川家康という人が、1590年の豊臣秀吉政権の時に、関東に移動させられた
→徳川家康は、約250万石の領地を支配するほど権力の大きな大名になった
※徳川家康は、五大老のトップだったということがあり
秀吉が死んだあとに地位が上がっていった
・五奉行の一人だった石田三成という人は、豊臣政権を続けさせようと考えた
→すると、石田三成と徳川家康との間で対立するようになった
・そこで、1600年に西軍と東軍という2つの軍が出来た
※西軍・・石田三成が、五大老のひとりだった毛利輝元という人を
トップにおいて作った軍
東軍・・徳川家康が、福島正則や黒田長政などの人達を引き連れて作った軍
→西軍と東軍は関ヶ原という場所で戦った
=そのため、1600年の石田三成の西軍と徳川家康の東軍との戦いを
関ヶ原の戦いと言う
※関ヶ原の戦いは、天下分け目の戦いと言われていた
・関ヶ原の戦いは徳川家康の東軍が勝利した
→そこで、徳川家康は西軍側についた大名を処分した
※どのような処分を行ったのか
・石田三成や小西行長などは、京都で処刑された
・西軍についた多くの大名は、改易(領地を没収すること)された
・毛利輝元や上杉景勝などは、減封(領地を減らすこと)された
・その後、1603年に全ての大名を指揮する権利に正統性を持たせるために、
天皇の命令を受けて江戸に幕府を作った
=これによって、江戸時代が始まった
・徳川家康は何を行ったのか
→・全国の大名に、江戸城と市街地を作ることを命令した
・国ごとに、国絵図と郷帳を作ることを命令した
※郷帳・・村ごとの石高を国単位でまとめた帳簿のこと
=このようなことを行うことで、徳川家康自身が
全国を支配するトップであることを示した
※徳川家康が自分の地位をより安定させるために行ったこと
・徳川家康が江戸に幕府を置いた時に、豊臣秀吉の子どもだった豊臣秀頼という人が
大坂城に残った
→この行動によって、名前だけは秀吉の地位を引き継いでいた
・そこで、徳川家康は将軍職(征夷大将軍という職)は徳川氏の世襲だということを
大名達に示すことを考えた
→そのため、徳川家康は自分で将軍職を辞めて、自分の子どもだった徳川秀忠という人に
引き継がせた
※征夷大将軍・・鎌倉時代以降は、幕府のトップの人のことを指す
・徳川家康は、駿府という場所に移動したが、大御所(前の将軍)ということで
権力は握り続けた
・徳川家康は、豊臣氏が建てた京都の方広寺の鐘に記されている言葉が良くない
という理由で1614年~1615年に豊臣氏を攻撃し、倒した
=この出来事を、大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)という
ポイント
・江戸幕府が出来るまでの流れを押さえる
・徳川家康の行動を押さえる
このあたりが今回のポイントです