幕藩体制について -幕藩体制とはなにか-
幕藩体制について考えてみます
・幕藩体制が出来るまでの流れと、幕藩体制とはなにか、ということについて
・徳川家康は、大名を厳しくコントロールするために、
一国一城令と武家諸法度という2つの法律を作った
※・一国一城令・・大名は、自分が住む城を1つしか持てないようにした法律のこと
・武家諸法度・・江戸幕府が大名を統制するために作った法律のこと
※武家諸法度は、南禅寺金地院の崇伝という人に内容を考えてもらい、
徳川秀忠の名前で出した
※また、武家諸法度は建武式目や分国法などをベースに作られている
・徳川家康が死んだ後に、2代目将軍に徳川秀忠という人がついた
・徳川秀忠は1617年に、大名、公家、寺社に土地を支配しているかどうかを
確認するための文書を出し、全国の土地を誰が持っているかをはっきりさせた
※大名について
・大名とは・・将軍と主従関係を結んでいて、1万石以上の武士のこと
・大名は、親藩、譜代、外様の3種類に分けられる
→・親藩・・尾張、水戸、紀伊などを始めとした、徳川氏の一門の大名のこと
・譜代・・最初から徳川氏の家臣だった大名のこと
・外様・・関ヶ原の戦いの前後に、徳川氏の下についた大名のこと
→親藩と譜代は重要な場所に置き、外様は遠くに置いた
・徳川秀忠は、1619年に福島正則が武家諸法度違反だとして、領土を没収した
=このような行動を取ることで、武家諸法度を徹底させること、
外様大名を処分できるほどの力を徳川幕府は
持っていることなどを示したと言われている
・徳川秀忠は、1623年に将軍職を徳川家光に渡して3代将軍にし
自分は大御所になることにした
→このようにすることによって、徳川幕府の権力をより強力なものにしようとしていた
・1632年に、徳川秀忠が死んだ後に、3代将軍徳川家光が
肥後の外様大名だった加藤氏を処分した
→この動きによって、徳川幕府の権力が九州でもしっかりと影響を与えるようになった
・1634年に、約30万の軍を引き連れて、京都に向かった(上洛した)
※なぜ、京都に向かったのか
→軍役を全ての大名に課すことで、幕府に軍事を仕切る権利があった事を
示そうとしたからだと言われている
・徳川幕府は、以下のようなことを大名に命令した
→・石高に応じて兵馬を用意して、戦いの時に将軍が命令した場合は
出陣させなければいけない
・普段は、普請役を与えていた
※普請役・・江戸城の修築や河川の工事などのような作業のこと
・徳川家光は、1635年に新しい武家諸法度として、寛永令という法律を作った
→この法律によって、大名に寛永令をより守らせると同時に、
大名を一層厳しく統制しようとした
・徳川家光は、寛永令の中でも代表的なものとして、参勤交代という制度を義務とした
※参勤交代について
・参勤交代とは・・江戸幕府が、大名を定期的に江戸に来させることを
義務とした制度のこと
・参勤交代によって、大名は江戸に1年、自分の国に1年住むというルールだった
※ただし、関東の大名は江戸と自分の国に住む期間がそれぞれ半年だった
・参勤交代によって、大名は江戸に、自分と家族が住むための
屋敷を作らなければいけなかった
→さらに、多くの家臣を引き連れて往復しなければいけなかったため
大名は多くの出費をした
・大名の妻子は、江戸の屋敷に住ませなければいけなかった
・一方で、参勤交代によって交通が発達して、江戸自体が大都市として発達していった
→以上のように、3代将軍の徳川家光の時代までに、将軍と大名との主従関係が完成した
=このように、将軍と大名(幕府と藩)という、領主に対して強い力を持つ2つが
主従関係を作ることで、将軍と大名が土地と人々を支配していく
という体制のことを、幕藩体制という
ポイント
・幕藩体制までの流れを押さえる
・幕藩体制とは何かを押さえる
このあたりが今回のポイントです