日中戦争について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 17:14      
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日中戦争について考えてみます

 

 

・日中戦争について

  

 

 ・中国では、1935年から関東軍によって、華北分離工作が平然と行われた

  ※華北分離工作・・華北を中国の国民政府の支配から切り離して、

           日本が支配しようとすること

   華北・・チャハル、山西、綏遠、河北、山東という5つの省をまとめた呼び方として

       日本が使っていた

 

 

 ・1935年に国民政府は、イギリスの援助を受けて幣制改革を行って、

  中国国内の経済を統一させようとした

  ※幣制改革・・貨幣制度の改革のことで、当時の中国は地域的な通貨などをやめて、

         中国統一の貨幣を流通させた

 

  →この動きを見て、関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)という

   政権を作って、分離工作を進めていった

   ※次の年の1936年に日本政府は、華北分離工作を国の政策として決めた

 

 

 ・上の動きに対して、中国国民の中で、抗日救国運動という日本に対抗する運動が起きた

  →その結果、1936年12月に西安事件が起きた

   =西安事件をきっかけにして、国民政府は共産党を倒すことを中止して、

    内乱を終わらせて、日本と本格的に戦う事を決めた

 

   ※西安事件について

    ・中国共産党は、国民党軍に何度も攻撃されたため、瑞金というところを諦めた

    →その後に、中国共産党は1万2000キロの大移動を行い、

     延安というところにたどりついて延安を、革命を起こすための新しい拠点にした

    →そこで、国民政府は延安にある共産党軍を倒すことを張学良という人に命令した

    →すると、張学良は中国を励ますために来ていた蒋介石を西安という地域で監禁して、

     内戦を停止することと、力を合わせて日本と対抗することを共産党側に要求した

     =この時の、張学良が蒋介石を監禁した事件を西安事件という

 

 

 

 ・1937年7月7日に、北京郊外の盧溝橋という橋の近くで日本軍と中国軍がぶつかる

  という事件が起きた

  =この事件を盧溝橋事件という

 

  ※盧溝橋事件は、いったんは現地で停戦協定が成立した   

   →しかし、当時の近衛文麿内閣が軍部の圧力に負けて、最初は軍隊を拡大しない

    方針だったものを変えて兵力を増やしつつ、戦場を広げていった

   →この動きに対し、国民政府も日本と徹底的に戦う姿勢を見せた

   →その結果、戦いが全面戦争になってしまった

    =この戦争を日中戦争という

 

     ※日中戦争について

      ・日本政府は、最初はこの戦争を「北支事変」、次に「支那事変」と

       名づけたが実際は全面戦争だった

      ・日本も中国も、アメリカの中立法という法律が適用されるのを避けるために

       正式には宣戦布告をしなかった

       ※中立法には、戦争状態にある国への武器や弾薬の輸出の禁止

        という内容が含まれていた

 

 

 ・1937年8月に、上海でも戦いが始まった

  =この戦いを第2次上海事変という

 

 

 ・1937年9月に、国民党と共産党がもう一度手を組んだ

  =この提携を、第2次国共合作という

   →第2次国共合作によって、抗日民族統一戦線という戦線を誕生させた

 

 

 ・日本は、中国にどんどん軍隊を送りこんでいった

  →そのため、1937年の年末に、国民政府の首都だった南京という地域を占領した

   ※南京を占領する前後に、日本軍は南京の中でも外でも略奪や暴行を行ったり、

    婦女子を含む多くの一般人や捕虜を殺したりした

    =この出来事を南京事件という

     →南京の状況は、外務省のルートを通って、陸軍の上の人達にも伝わっていた

 

   →国民政府は、南京から漢口、漢口から重慶へと、どんどん奥地に

    入っていったもののあくまでも日本と戦う姿勢を続けた

    ※そのため、日中戦争は泥沼のような状態になった

 

 

 

 ・上のような状況だったので日本は、大規模な攻撃を行う事を中断した

  →その代わりに、様々な場所に傀儡政権を作るスタイルに切り替えた

 

 

 ・1938年1月に近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と声明した

  →この声明によって、国民政府と交渉して平和を取り戻すという道を

   自分から切り捨てた

 

 

 ・さらに、1938年の終わりに、日中戦争の目的が日本、満州、中国の3国が

  手を組む東亜新秩序建設であるということを声明した

 

   ※東亜新秩序について

    ・1938年1月の「国民政府を対手とせず」という声明、

     11月3日の東亜新秩序声明、12月22日の近衛三原則声明

     (善隣友好、共同防共、経済提携)をまとめて近衛声明と言い、

     その一つが東亜新秩序だった

    ※なぜ、このタイミングで戦争の目的を近衛声明として、改めて日本側が表明したのか

    ・当時のヨーロッパが危機的な状況であり、イギリスのアジアに対する

     政策が弱くなった

     →そこで日本は、中国内部で日本に友好的な人を表に出すことで、

      中国を支配するチャンスになると考えた

 

 

 ・そして、国民政府の重要人物だった汪兆銘(精衛)という人を重慶から連れ出した

  →その後、1940年に様々な地域にある傀儡政権を組み合わせた

   =その結果、汪兆銘をトップに置いた、日本に友好的な新しい国民政府を

    南京に作った

 

  ※ただし、汪兆銘政権は非常に弱々しいものだった

   →そのため、傀儡政権を使って日中戦争を終わらせるという政策は失敗した

 

 

 ・一方で、国民政府は援蒋ルート(アメリカやイギリスなどからの物資の搬入路)を

  通じて援助を受けた

  →この援助によって、その後も日本と戦い続けた

 

 

 

ポイント

・日中戦争について、過程、内容、背景などを中心に様々な内容を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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  • : 2020/5/16(土) 04:46:17 | スーパーコピー口コミ | 返信する

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