55年体制について -55年体制前後の動き-
55年体制について考えてみます
・55年体制について
・1954年に、造船疑獄事件という事件で、吉田茂内閣の批判が強まった
→その時に、鳩山一郎などを始めとした自由党内部の反吉田茂派が離党して、
鳩山一郎を総裁として日本民主党という政党を作った
・1954年の終わりに、吉田茂内閣が終了して、鳩山一郎内閣が誕生した
→鳩山一郎は、憲法の改正や再び軍備を進めることなどを考え、
この考えを進めていく姿勢を見せた
・一方で、左派と右派両方の社会党は「逆コース」批判の運動を高めていくなかで、
政党の勢いを拡大していった
・また、左派社会党は再び軍備に反対する姿勢を示し、総評の支援を受けつつ、
議席を増やしていった
→この時に、保守と革新の2つの対立構造が出来て、以下のような主張をした
※保守派・・憲法改正とアメリカ依存の安全保障を主張した
革新派・・憲法擁護と非武装中立を主張した
・1955年2月の総選挙の時に、社会党が左派と右派両方の社会党が合わせて
憲法改正の阻止に必要な3分の1以上の議席を確保した
※その後、10月には左派と右派が統一した
・保守の陣営では、財界の要望もあり、11月に日本民主党と自由党が合流して、
自由民主党という政党を作った
※このような動きを保守合同という
・自由民主党の初代総裁に、鳩山一郎が選ばれた
→この結果、形式上は2大政党制が誕生した
※その後、保守勢力が議席の3分の2弱を、革新勢力が議席の3分の1を維持し、
保守と革新が対立しつつ保守一党優位の政治体制が約40年続いた
=結果的に、自民党と社会党の2つが続く体制になった
=このような政治体制を、55年体制という
・保守合同の後は、第3次鳩山一郎内閣が展開していた
→鳩山一郎は再軍備を推進するため、国防会議が作られると同時に、
憲法改正を提唱して憲法調査会を用意した
→一方で「自主外交」を提唱して、ソ連と国交を回復するための交渉を推進した
・1956年10月に鳩山一郎首相自身がモスクワを訪問して、日ソ共同宣言に調印した
→この結果、国交が正常化した
※日ソ共同宣言の結果、どのようなことが起きたのか
・日本の国連加盟を拒否していたソ連が支持に回ったため、1956年12月に
日本の国連加盟が実現した
・北方領土について、ソ連は国後島と択捉島の帰属について解決済みという立場を取った
・平和条約の締結は持ち越しとなった
・歯舞諸島と色丹島を日本へ引き渡すのも、平和条約が締結された後のことだった
ポイント
・55年体制までの流れを押さえる
・55年体制後の動きを押さえる
このあたりが今回のポイントです