55年体制の崩壊について
55年体制の崩壊について考えてみます
・55年体制の崩壊までの流れと崩壊について
・1989年に昭和天皇が亡くなり、元号が平成に改められた
→この時期から、自民党保守政権の中で金権政治があることが、
国民に知られていくようになった
・1989年に、竹下登内閣はリクルート事件の疑惑がかかった状態で終了してしまった
→この後を宇野宗佑という人の内閣が引き継いだが、参議院選挙で
与党が負けてしまったことですぐに終了してしまった
・宇野宗佑内閣の後を、海部俊樹という人が内閣を担当したが、
湾岸戦争の対応に苦しんでいた
・海部俊樹内閣の後を、宮沢喜一という人が内閣を担当した
→しかし、1992年に佐川急便事件、1993年にゼネコン汚職事件が
出てきてしまった
※そのため、政界や官僚と大企業との間に癒着があったことがはっきり分かり、
国民の激しい非難を浴びた
=以上のような流れを受けて、政界でも選挙制度改革や政界再編成を目指す動きが
強まっていった
・55年体制の崩壊について
・1993年6月に自由民主党が分裂するということが起きた
※保守が嫌で、「政治改革」を目指す人たちが自民党から離脱し、
小沢一郎や羽田孜などが作った新生党や新党さきがけという政党などに
加わるようになっていった
・1993年7月の衆議院総選挙では自民党が過半数を下回って負けてしまった
→その結果、宮沢喜一内閣は終了した
=その後、共産党以外の非自民8党の連立政権が誕生した
※社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合の
7党に、参議院の会派である民主改革連合が加わって、
日本新党の細川護熙という人を首相にして誕生した
※なぜ、55年体制が終了したのか
・1955年から、38年間続いていた政権が交代した
・自民党の長期単独政権によって、様々な問題が浮き彫りになってしまった
・バブル経済が崩壊してしまった
・総評の解散と連合の結成というような、革新勢力内部での変動が起きた
→55年体制の崩壊後は、今までの保守と、新しい革新との対立があいまいになった
=その結果、不安定な連合政権の時代に日本は進んでいった
・55年体制崩壊後の日本の政治について
・細川護熙内閣は「政治改革」を提唱し、1994年に選挙制度改革を行った
→その結果、衆議院に小選挙区比例代表制を導入することになった
・1994年に、細川護熙内閣に代わって、羽田孜という人が内閣を担当した
→しかし、羽田孜内閣は短命に終わってしまった
・羽田孜内閣の後、自民党と社民党が提携した
→さらに、その提携に新党さきがけが加わって、社会党の村山富市という委員長を首相とする政権が誕生した
※社会党は、安保・自衛隊や消費税を認めるなどして、社会党の基本的な考え方を大幅に変更した
・一方で、新生党、公明党、民社党、日本新党などの野党側が、1994年に組み合わさって、
新進党という政党を作った
ポイント
・55年体制までの流れをおさえる
・55年体制の概要をおさえる
・55年体制のその後の様子をおさえる
このあたりが今回のポイントです