開国と幕末の流れをまとめてみた

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投稿者:       投稿日時:2014/01/23 06:35      
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開国と幕末の流れ

 

 

開国・・アメリカのペリーが浦賀に来航

→その結果、1854年に日米和親条約を結んだ

→1858年に、日米修好通商条約を結んだ(関税自主権が無い、領事裁判権を認める)

 

開国は幕府が独断で行った

※攘夷論の人達が幕府の独断を批判した(長州藩の吉田松陰など)

→そのため、大老井伊直弼は吉田松陰などを死刑にした(=安政の大獄

=安政の大獄は批判され、井伊直弼は1860年に殺された(桜田門外の変

 

※開国の影響

・綿糸や綿織物が輸入→国内の生産地に影響

・日本から生糸や茶が輸出→国内では品不足や値上がりが起きた

 

 

 

開国によって、外国の国々は日本の港に軍隊を置こうとした

→そこで、朝廷を味方につけて尊王攘夷運動が起きた

※このときに、薩長土肥が強くなってきた

 

薩摩藩は、生麦事件を起こした

→だから、イギリスは鹿児島を攻撃した

=そのため、薩英戦争が起きた

 

長州藩は、外国船を攻撃して、攘夷を朝廷に働きかけていた

→だから、幕府は長州藩を攻撃した

→一方で、長州藩の外国船の攻撃の復讐として、四国連合艦隊が下関の砲台を攻撃した

※四国連合艦隊・・イギリス、アメリカ、フランス、オランダ

 

=上記の流れを見て、尊王攘夷派は以下のようなことを考えた

・開国は避けられない

・幕府を倒すことを強く考えた

 

→そこで、長州藩の高杉晋作・木戸孝允、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は、土佐藩の坂本竜馬が仲介役となって、薩長同盟を結んだ

※幕府は、薩長同盟なども見たため、長州藩を再び攻撃したが長州藩に苦戦した

※同時に、百姓一揆や打ちこわしなども頻繁に起こり、幕府は一層苦戦した

 

 

 

幕府と尊王攘夷の戦いの裏で、民衆が生活必需品の品不足や値上がりに不満を募らせた

※ただし、民衆が藩や幕府に訴えても、解決が難しくなってきた

→そこで、民衆が藩や幕府に頼るのではなく、自力で解決しようと考えた

=その結果、以下のようなことが起きた

・世直し一揆

・大商人や米屋の打ちこわし

・「ええじゃないか」運動  など

→これらの動きは、一層幕府の動きを弱めた

 

 

 

民衆の動きや尊王攘夷などの流れを通して、倒幕運動が高まっていった

→そこで、当時の15代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に返して、朝廷の新しい政府の中で指導権を持とうとした

=そのため、1867年10月に政権を朝廷に返した(=大政奉還

 

大政奉還に対して、天皇(朝廷側)は王政復古の大号令を宣言した

※このときに、徳川慶喜を新政府に加えなかった

※加えて、幕府の土地を朝廷に差し出すことを命令した

→そこで、幕府は1868年1月に薩長を中心とする新政府軍(朝廷側)と戦った

=この戦いを鳥羽・伏見の戦いといい、幕府はこの戦いで負けた

 

戦いに勝った新政府軍は、以下のようなことを行った

・海外の国々と中立を約束させた

・1868年4月に、朝廷側が江戸を占領した

・西郷隆盛や勝海舟などの活躍によって、江戸城を無血開城させた

 

新政府軍の動きについて、会津藩や旧幕府の人達などは、東北地方や北海道で抵抗を続けた

→この抵抗に対して、朝廷側は武力で破った(=戊辰戦争

=結果、1869年5月に函館の旧幕府側を降伏させた

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