ローマ帝国と3世紀の危機について
ローマ帝国と3世紀の危機について考えてみます
・ローマ帝国について
・オクタウィアヌスが権力のトップに立った後、紀元前27年に
元老院からアウグストゥス(尊厳者)という称号を与えられた
=ここから、帝政時代という時代が始まった
・オクタウィアヌスは、カエサルと違って元老院など共和政の制度を尊重し、
市民の中の第一人者(プリンケプス)と自称した
※しかし、実際にはほとんど全ての重要な役職をオクタウィアヌスが一人で兼任していた
→そのため、オクタヌウィアヌスは全ての政治権力を持っていた
=この政治を元首政(プリンキパトゥス)という
※元首政は、事実上の皇帝の独裁体制だった
→ここから、約200年間の時代は、「ローマの平和」と呼ばれ、繁栄と平和が続いていた
※特に、五賢帝の時代はローマの最盛期だった
→トラヤヌス帝という皇帝の時に、領土は最大になった
※五賢帝・・ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、
マルクス=アウレリウス=アントニウスの5人をまとめた呼び方のこと
・ローマ風の都市が道路や水道と同時に、
国境近辺にまで作られるようになり、都市文化が浸透した
※そのなかには、ロンドン、パリ、ウィーンなど、後で近代都市になったものも多い
・ローマは、都市を通して属州を支配した
→都市の上層市民は、ローマ市民権を与えられる代わりに、帝国の支配に貢献した
→一方で、ローマの支配のもとで、重税に苦しむ属州の下層の人達もいた
・その後、ローマ市民権の拡大は徹底していった
→そして、212年のカラカラ帝の時に帝国の全自由人に
ローマ市民権が与えられた
=結果的に、ローマは文字通り世界帝国になった
※さらに、商業活動も繁栄した
→当時は、季節風貿易という貿易によって、
中国・インド・東南アジアから絹や香辛料がもたらされた
・3世紀の危機について
・五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が治めていた時の末期から、
帝国の財政の行き詰まりや経済の不振の様子が段々と見えるようになってきた
・3世紀には、軍人皇帝の時代になった
※軍人皇帝の時代・・帝国のまとまりが崩れ始め、それぞれの属州の軍団が
独自に皇帝をたてて、元老院と争い、
短期間に多くの皇帝が即位しては殺害されるという時代のこと
※さらに、北のゲルマン人や東のササン朝などの異民族も
国境に侵入してくるということが起きた
→そのため、戦乱は終わらず、帝国が分裂の危機におちいっていった
・当時は社会の仕組みも以下のように変化していった
→・内乱と異民族の侵入に対する軍事力が増強されていった
・軍事力の維持のために、都市は重税を課されて経済的に弱まっていき、
特に西方で衰退し始めた
・都市の上層市民の中には、都市を去って田園に大所領を経営する人が出て来た
・経営者は、貧困化して都市から逃げ出した下層市民などを小作人(コロヌス)として
大所領で働かせた
=このような生産体制を小作制(コロナトゥス)と呼んだ
※小作制は、奴隷制経営によるラティフンディアに代わって発達していった
ポイント
・ローマ帝国についておさえる
・3世紀の危機についておさえる
このあたりが今回のポイントです