西ローマ帝国の滅亡について
コメント数: 0 お気に入り登録数:3
西ローマ帝国の滅亡について考えてみます
・西ローマ帝国の滅亡について
・284年にディオクレティアヌス帝が即位した
→ディオクレティアヌス帝は、以下のようなことを行った
・四帝分治制(テトラルキア)という制度を使って、政治的な秩序を回復した
※四帝分治制・・帝国を4つに分け、
正帝と副帝を2人ずつたてて統治させる制度のこと
・軍の兵員を増やして、徴税の仕組みを新しくするなどの様々な改革を行った
→上のような改革によって、分裂の危機をとりあえず回避した
・皇帝を神として礼拝させ、専制君主として支配した
=結果的に、政治体制が元首政から専制君主政(ドミナトゥス)へと変化していった
・ディオクレティアヌス帝の政策を、コンスタンティヌス帝という人が引き継いだ
→コンスタンティヌス帝は、以下のようなことを行った
・今まで迫害されていたキリスト教を公認することで、帝国の統一を狙った
・軍隊をさらに増強して、帝国の支配を安定させようとした
・財政基盤を整備するために、コロヌスを土地に縛り付けて税の収入を確保した
・下層民の身分や職業を世襲化させた
・330年に新しい首都を、ビザンティウムというところに建設した
※この都市は、コンスタンティノープルと名前を変えた
→財政基盤の整備や世襲化などを使って、巨大な官僚体制を作っていった
・官吏の力を強め、皇帝が官吏を使って帝国を専制支配する体制を作っていった
・ローマを官僚制を土台とした階層社会にした
→そのため、人々は官吏としての出世が目標になっていった
=こうして、ポリス以来の市民の自由は完全に失われてしまった
・コンスタンティヌス帝が改革したのにも関わらず、膨大な数の軍隊と官僚を支えるための
重い税金は相次ぐ属州の反乱を招くことになった
→そして、375年にゲルマン人の大移動ということが起きたため、帝国内部が混乱した
=そのため、帝国の分裂を防ぐことは難しかった
→そこで、395年にテオドシウス帝は帝国を東西に分割して2人の子どもに分け与えた
・東西の分割によって、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ローマ帝国が出て来た
・東ローマ帝国は、コンスタンティノープルを首都とし、都市経済が比較的に順調だった
→そのため、その後1453年まで東ローマ帝国は続いた
・西ローマ帝国は、ローマを首都とし、ゲルマン人の侵入によって混乱してしまった
→そのため、476年にゲルマン人傭兵隊長のオドアケルという人によって、
西ヨーロッパ皇帝が退位させられた
=その結果、西ヨーロッパ帝国は滅亡してしまった
ポイント
・ディオクレティアヌス帝の動きについておさえる
・コンスタンティヌス帝の動きについておさえる
・東ローマ帝国と西ローマ帝国の様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです