西ローマ帝国の滅亡について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/05 05:39      
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西ローマ帝国の滅亡について考えてみます

 

 

・西ローマ帝国の滅亡について

 

 

 ・284年にディオクレティアヌス帝が即位した

 

  →ディオクレティアヌス帝は、以下のようなことを行った

   ・四帝分治制(テトラルキア)という制度を使って、政治的な秩序を回復した

    ※四帝分治制・・帝国を4つに分け、

              正帝と副帝を2人ずつたてて統治させる制度のこと

   ・軍の兵員を増やして、徴税の仕組みを新しくするなどの様々な改革を行った

    →上のような改革によって、分裂の危機をとりあえず回避した

   ・皇帝を神として礼拝させ、専制君主として支配した

    =結果的に、政治体制が元首政から専制君主政(ドミナトゥス)へと変化していった

 

 

 ・ディオクレティアヌス帝の政策を、コンスタンティヌス帝という人が引き継いだ

  →コンスタンティヌス帝は、以下のようなことを行った

   ・今まで迫害されていたキリスト教を公認することで、帝国の統一を狙った

   ・軍隊をさらに増強して、帝国の支配を安定させようとした

   ・財政基盤を整備するために、コロヌスを土地に縛り付けて税の収入を確保した

   ・下層民の身分や職業を世襲化させた

   ・330年に新しい首都を、ビザンティウムというところに建設した

    ※この都市は、コンスタンティノープルと名前を変えた

    →財政基盤の整備や世襲化などを使って、巨大な官僚体制を作っていった

   ・官吏の力を強め、皇帝が官吏を使って帝国を専制支配する体制を作っていった

   ・ローマを官僚制を土台とした階層社会にした

    →そのため、人々は官吏としての出世が目標になっていった

    

    =こうして、ポリス以来の市民の自由は完全に失われてしまった

 

 

 

 ・コンスタンティヌス帝が改革したのにも関わらず、膨大な数の軍隊と官僚を支えるための

  重い税金は相次ぐ属州の反乱を招くことになった

  →そして、375年にゲルマン人の大移動ということが起きたため、帝国内部が混乱した

   =そのため、帝国の分裂を防ぐことは難しかった

 

  →そこで、395年にテオドシウス帝は帝国を東西に分割して2人の子どもに分け与えた

 

 

 ・東西の分割によって、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ローマ帝国が出て来た

  

 

 ・東ローマ帝国は、コンスタンティノープルを首都とし、都市経済が比較的に順調だった

  →そのため、その後1453年まで東ローマ帝国は続いた

 

 ・西ローマ帝国は、ローマを首都とし、ゲルマン人の侵入によって混乱してしまった

  →そのため、476年にゲルマン人傭兵隊長のオドアケルという人によって、

   西ヨーロッパ皇帝が退位させられた

   =その結果、西ヨーロッパ帝国は滅亡してしまった

 

 

ポイント

・ディオクレティアヌス帝の動きについておさえる

・コンスタンティヌス帝の動きについておさえる

・東ローマ帝国と西ローマ帝国の様子についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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