宗教改革の始まりについて
宗教改革の始まりについて考えてみます
・宗教改革について
※カトリック教会への批判は14世紀ころからすでにみられていた
・1517年に、ドイツ中部のザクセンのヴィッテンベルク大学の神学教授の
マルティン=ルターは、「魂の救いは福音信仰のみによる」という考えから、
贖宥状(免罪符)の悪い部分を攻撃する九十五カ条の論題を発表した
※福音信仰・・魂の救いは善行にはよらず、キリストの福音を信ずることだけ
だという考え方のこと
※当時、メディチ家出身の教皇のレオ10世という人は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の
新築資金を調達するために、「教会のために喜捨などの善行を積めば、
その功績によって過去におかした罪も赦される」と説明して、贖宥状を売り出していた
※ドイツは、当時は「ローマの牝牛」と言われていた
→ルターの論題がドイツ各地に伝えられると、幅広い社会層がルターの論題を支持していた
※代表的な支持者に、教皇庁の搾取に反発する諸侯や市民、領主の搾取のもとに
あった農民などがいる
・1521年に、ルターは教皇から破門された
→ルターは、皇帝のカール5世にヴォルムスの帝国会議に呼び出されたが、
自分の説を撤回できなかった
=結果的に、ザクセン選帝侯の保護のもとで「新約聖書」のドイツ語訳を完成した
※これにより、民衆が直接キリストの教えに接することが出来るようになった
・一方で、ルターの説に影響を受けたミュンツァーという人は、1524年~1525年に
農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争を指導して、処刑された
→ルター自身、最初は農民蜂起に同情的だったが、
やがて農民蜂起を弾圧する諸侯の側にまわった
・ザクセン選帝侯をはじめ、ルターの教えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れ、
領内の教会の首長となって(領邦教会制)、修道院の廃止、教会儀式の改革などをすすめた
・その後のドイツでは、カール5世がイタリア戦争やオスマン帝国による
ウイーン包囲などの国際的な情勢のために何度かルター派との妥協にせまられた
→そして、旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)との争いは
シュマルカルデン戦争にまで発展した
=結果的に、1555年にアウクスブルクの和議が成立した
※アウクスブルクの和議で、以下のようなことが決められた
・諸侯はカトリック派とルター派のいずれをも採用できた
・領民はそれぞれの諸侯の宗派に従うという原則が確立した
→そして、ルター派は北欧諸国にも広がっていった
ポイント
・宗教改革の始まりとルターの動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです