宗教改革の始まりについて

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投稿者:       投稿日時:2013/10/14 20:18      
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宗教改革の始まりについて考えてみます

 

 

・宗教改革について

 

 ※カトリック教会への批判は14世紀ころからすでにみられていた

 

 

 ・1517年に、ドイツ中部のザクセンのヴィッテンベルク大学の神学教授の

  マルティン=ルターは、「魂の救いは福音信仰のみによる」という考えから、

  贖宥状(免罪符)の悪い部分を攻撃する九十五カ条の論題を発表した

  ※福音信仰・・魂の救いは善行にはよらず、キリストの福音を信ずることだけ

         だという考え方のこと

 

  ※当時、メディチ家出身の教皇のレオ10世という人は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の

   新築資金を調達するために、「教会のために喜捨などの善行を積めば、

   その功績によって過去におかした罪も赦される」と説明して、贖宥状を売り出していた

   ※ドイツは、当時は「ローマの牝牛」と言われていた

 

 →ルターの論題がドイツ各地に伝えられると、幅広い社会層がルターの論題を支持していた

  ※代表的な支持者に、教皇庁の搾取に反発する諸侯や市民、領主の搾取のもとに

   あった農民などがいる

 

 

 

 

 ・1521年に、ルターは教皇から破門された

  →ルターは、皇帝のカール5世にヴォルムスの帝国会議に呼び出されたが、

   自分の説を撤回できなかった

   =結果的に、ザクセン選帝侯の保護のもとで「新約聖書」のドイツ語訳を完成した

    ※これにより、民衆が直接キリストの教えに接することが出来るようになった

 

 ・一方で、ルターの説に影響を受けたミュンツァーという人は、1524年~1525年に

  農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争を指導して、処刑された

  →ルター自身、最初は農民蜂起に同情的だったが、

   やがて農民蜂起を弾圧する諸侯の側にまわった

 

 ・ザクセン選帝侯をはじめ、ルターの教えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れ、

  領内の教会の首長となって(領邦教会制)、修道院の廃止、教会儀式の改革などをすすめた

 

 

 

 

 ・その後のドイツでは、カール5世がイタリア戦争やオスマン帝国による

  ウイーン包囲などの国際的な情勢のために何度かルター派との妥協にせまられた

  →そして、旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)との争いは

   シュマルカルデン戦争にまで発展した

   =結果的に、1555年にアウクスブルクの和議が成立した

    ※アウクスブルクの和議で、以下のようなことが決められた

     ・諸侯はカトリック派とルター派のいずれをも採用できた

     ・領民はそれぞれの諸侯の宗派に従うという原則が確立した

 

  →そして、ルター派は北欧諸国にも広がっていった

 

 

ポイント

・宗教改革の始まりとルターの動きについておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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