東方問題・クリミア戦争・ロシアの革命について
東方問題・クリミア戦争・ロシアの革命について考えてみます
・東方問題について
・1848年革命を経験したヨーロッパは、19世紀の後半に入って、
以下のようなことが起きた
→・好況期を迎えた
・自由主義が西欧諸国を中心に発展した
・イタリアとドイツの統一というナショナリズムの問題を軍事力によって解決した
→この軍事力による解決のスタートは、
1850年代に起きたクリミア戦争という戦争だった
=この戦争の結果、ナポレオン戦争終結から約40年続いた、
平和な状況が変わってきてしまった
・19世紀の前半以降、オスマン帝国の支配下にある諸民族は、自由主義とナショナリズムの
風潮の中で、オスマン帝国の衰退に乗っかって、独立運動を進めてきた
※しかし、ギリシアのように、様々な民族の独立運動は、
中東で利害関係を持つ有力な国が関わることにもなった
=このような流れで生まれた国際問題を、西欧の側から見て「東方問題」という
※特にロシアは、不凍港の獲得と勢力の拡大を目指して、何度も南下を計画した
・1831年、オスマン帝国の支配下で自治を認められていたエジプトが、
領土を求めてオスマン帝国とたたかった
=この出来事を、エジプト=トルコ戦争という
※この時、ロシアはオスマン帝国を支持して南下を実現させようとした
→しかし、イギリスなどがこの戦争に絡んできてしまったため、成功しなかった
・クリミア戦争について
・1853年に、ロシアがオスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護を理由に、
オスマン帝国に侵入するということが起きた
=この出来事によって起きた戦争を、クリミア戦争という
※クリミア戦争では、次の年にイギリスとフランスがロシアとの戦いに
加わるということが起きた
→そのため、クリミア戦争は、ヨーロッパの有力な国どうしでの戦争になった
→クリミア戦争では、ロシアが負けた
=そのため、1856年にパリ条約という条約が結ばれ、以下のようなことが起きた
・ダーダネルス、ボスフォラスの両方の海峡の外国軍艦の通航が禁止された
・黒海の中立化が約束された
→結果的に、ロシアの南下政策も失敗に終わった
=上のような流れによって、ロシアとイギリスが支えてきたヨーロッパの国際秩序が
大きく揺れ動くことになった
→そして、1870年代の初めまで戦争が頻繁に起こり、それぞれの国に大きな影響を与えた
・ロシアの革命について
・ロシアでは、専制政治と農奴制が強かった
→しかし、クリミア戦争の敗北によって、ロシア国内で改革が必要となった
・ロシアのアレクサンドロス2世という人は、1861年に農奴解放令という令を出した
→この令によって、農奴に人格的な自由を認めた
※しかし、土地は貴族の領主から買い戻さなければならなかった
※さらに、農民個人ではなく、農村共同体(ミール)に引き渡されることが多かった
・ロシアは、1863年のポーランドの反乱以後、皇帝が再び専制政治を
強化していくということが起きた
・当時のロシアは、産業の発展が不十分だった
→そのため、改革の担い手の中心は、都市の知識人階級(インテリゲンツィア)だった
※インテリゲンツィアについて
・インテリゲンツィアの一部は、農民を啓蒙して社会主義的改革を行うことが
必要であると考えた
→そこで、「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」という標語をかかげて
農村に入り込んでいった
=そのため、インテリゲンツィアは、ナロードニキ(人民主義者)と呼ばれていた
・しかし、インテリゲンツィアの運動は行き詰まった
→そのため、絶望した人々の間には、テロリズム(暴力主義)で
政府を倒そうとする考え方が広がった
※この時に、皇帝のアレクサンドロス2世や高官が暗殺された
ポイント
・東方問題の概要と流れについておさえる
・クリミア戦争の内容と各国の動きについておさえる
・クリミア戦争後のロシアの革命の様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
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