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	<title>アラエス &#187; 宋</title>
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	<item>
		<title>摂関政治と国際関係の動きについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1128</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1128#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 16:01:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[康太]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[刀伊の女真人]]></category>
		<category><![CDATA[安史の乱]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[摂関政治]]></category>
		<category><![CDATA[朝鮮半島]]></category>
		<category><![CDATA[渤海]]></category>
		<category><![CDATA[菅原道真]]></category>
		<category><![CDATA[藤原道長]]></category>
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		<description><![CDATA[摂関政治と国際関係の動きについて考えてみます &#160; &#160; ・摂関政治について &#160; 　・摂関政治とは・・摂政や関白が何回も任命され、摂政や関白が政権を握り続けた政治のこと 　　　　　　　　　　※摂 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1128">摂関政治と国際関係の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>摂関政治と国際関係の動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・摂関政治について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・摂関政治とは・・摂政や関白が何回も任命され、摂政や関白が政権を握り続けた政治のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　※摂政や関白を出す家柄を、摂関家と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・摂政と関白は藤原氏の中でも最高の位になり、藤原氏の「氏長者」という役割も</p>
<p>　　担うようになった</p>
<p>　　＝摂政と関白が、氏全体を統率して、ものすごい権力を握るようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→以上のように、摂政と関白にはすごい権力があるため、摂政と関白の地位を目指して</p>
<p>　　争いが起きるようになった</p>
<p>　　＝この争いは、藤原道長の時におさまったと言われている</p>
<p>　　　※当時の争いの代表的なものに、兼道と兼家の兄弟の争い、</p>
<p>　　　　道長と伊周の叔父と甥の争いが有名だと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　・藤原道長は、自分の４人の娘を皇后や皇太子妃として、</p>
<p>　　約３０年間朝廷で権力を握っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時は、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の３代が天皇に就いていた</p>
<p>　　※３代の天皇は、藤原道長の外孫だったため、藤原道長のあとを継いだ藤原頼道は、</p>
<p>　　　３代の天皇の時に摂政と関白を行った</p>
<p>　　　＝結果的に摂関家の勢力は安定していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の貴族社会について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の貴族の社会は、結婚した男女は妻側の両親と同居するか、</p>
<p>　　新居を作って住むのが一般的だった</p>
<p>　　※さらに、夫は妻の父にかばってもらったり、育児を母が行ったりしていた</p>
<p>　　　＝母方の縁が重視されていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・摂政と関白は、最も近い外戚（母方の親戚）として天皇に近づくと同時に、</p>
<p>　　天皇の権威を利用して大きな権力を握った</p>
<p>　　　※特に、摂政と関白は役人を任命したり、罷免したりする権力があったので、</p>
<p>　　　　中級と下級の貴族は、摂関家や摂関家と結びつきの強い上級貴族に従うようになった</p>
<p>　　　　→そのため、昇進する順番や限度が、家柄や外戚の関係によって</p>
<p>　　　　　ほとんど決まってしまうようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の中級と下級の貴族は、摂関家と結びつくようになって、</p>
<p>　　経済的に有利な地位だった国司になることを目指した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の政治は、摂関政治のもとでも天皇が太政官を通して、中央と地方の役人を指揮して、</p>
<p>　　全国を統一的に支配する形になっていた</p>
<p>　　→当時の政治や事務は、太政官での公卿の会議によって審議が行われ、</p>
<p>　　　審議の結果が天皇が摂政の許可を得て太政官符や宣旨と呼ばれる文書で</p>
<p>　　　命令や伝達された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→しかし、段々と先例や儀式を重視する形式を取るようになり、</p>
<p>　　　宮廷で年中行事が重視されていった</p>
<p>　　　※年中行事には、賀茂祭、七夕、叙位、徐目と呼ばれるものなどがある　　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→一方で、地方の政治は国司が行うようになり、朝廷が国司の政治に関して</p>
<p>　　　積極的な政策を行うようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　　</p>
<p>・当時の国際関係について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本は、８９４年に菅原道真が、遣唐使の派遣を中止した</p>
<p>　　※唐は、８世紀の内乱（安史の乱）が起きたときから、衰退し続けていたため、</p>
<p>　　　多くの危険をおかしてまで公的な交渉をする必要がない、</p>
<p>　　　という判断を行ったため派遣を中止した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・９０７年に唐が滅び、宋という国が新しく出来た</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本は、宋と交流をしようとはしなかったが、九州の博多に宋の商人が来たことで、</p>
<p>　　書籍、工芸品、薬品などが輸入された</p>
<p>　　※朝廷の許可をもらって宋に行く僧もいて、活発な交流をしていた僧がいた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中国東北部では、渤海が遼という国に滅ぼされた</p>
<p>　　※遼に支配されていた沿海州地方という地方に住む、刀伊の女真人という人が、</p>
<p>　　　金という国を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朝鮮半島に、１０世紀のころに高麗という国が出来て、新羅を滅ぼしたため、</p>
<p>　　朝鮮半島を高麗が統一した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※日本は、遼や高麗などとも国交を行おうとしなかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・摂関政治の概要を押さえる</p>
<p>・当時の貴族の動きを押さえる</p>
<p>・国際関係を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1128">摂関政治と国際関係の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>宋の時代の文化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/802</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/802#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 08:51:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[儒学]]></category>
		<category><![CDATA[士大夫]]></category>
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		<description><![CDATA[宋の時代の文化について考えてみます &#160; &#160; ・宋の時代の様々な文化について &#160; &#160; 　・宋の時代では、白磁や青磁などの陶磁器が有名だった 　　※唐の時代では、唐三彩という陶磁器が有 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/802">宋の時代の文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>宋の時代の文化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・宋の時代の様々な文化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋の時代では、白磁や青磁などの陶磁器が有名だった</p>
<p>　　※唐の時代では、唐三彩という陶磁器が有名だった</p>
<p>　　　→唐と宋の陶磁器を比べると、以下のような特徴がある　　</p>
<p>　　　　・唐の陶磁器・・色彩豊かで具象的</p>
<p>　　　　・宋の陶磁器・・すっきりとした理知的な美しさを持っている</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　→宋の陶磁器は、外側の装飾を弱めて、物事の本質を重視しようとした宋代の文化の</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　特徴を表していると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→このような、唐代から宋代への文化の変化は、様々な場面でみられる</p>
<p>　　　　＝文化の変化を進めたのは、士大夫という、儒学の教養を持っていた知識層だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・儒学について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・儒学では、訓詁学に代わって、宋学が誕生した</p>
<p>　　　※・訓詁学・・経典の一つ一つの字句の解釈を重視する学問のこと</p>
<p>　　　　・宋学・・経典全体を哲学的に分析して、宇宙万物の正しい本質（理）を求めようとする学問のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→宋学は、北宋の周敦頤という人をスタートにして、南宋の朱熹（朱子）という人が完成させた</p>
<p>　　　　＝そのため、宋学は、朱子学とも言われている</p>
<p>　　　　　</p>
<p>　　　→朱子学は、長い間儒学の本質だとされ、日本や朝鮮の思想にも大きな影響を与えた</p>
<p>　　　　※経典の中では、特に四書（「大学」「中庸」「論語」「孟子」）が重視されるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・宋の時代の儒学は、社会秩序を正しくしようとした士大夫の考え方と結びついて発展していった</p>
<p>　　　＝その結果、大義名分論という考え方が盛んになっていった</p>
<p>　　　　※大義名分論・・華夷、君臣、父子などの区別を重視する考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※宋代の歴史学を代表するものに、司馬光の「資治通鑑」というのがある</p>
<p>　　　　→資治通鑑は、君主の統治に資する（役立つ）ことを目的に書かれた編年体の通史だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※さらに、唐代の古文の復興ということもおこった</p>
<p>　　　　→そのため、宋の時代にも欧陽脩や蘇軾などの名文家が誕生した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋代の美術と工芸について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・院体画や文人画が盛んになった</p>
<p>　　　※・院体画・・宮廷画家を中心とした写実的な美術のこと</p>
<p>　　　　　　　　　　　徽宗という人が有名</p>
<p>　　　　・文人画・・水墨や淡彩で自由な筆さばきを使った美術のこと　</p>
<p>　　　　　　　　　　　士大夫という人が中心になって作り、蘇軾などが有名</p>
<p>　</p>
<p>　　　　　→文人画は、対象を模写するだけではなく、自然観察を通して作者の心をつかみとった「宇宙の理」を</p>
<p>　　　　　　映しだそうとするものだった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・工芸の分野では、白磁や青磁などの磁気の生産が盛んになった</p>
<p>　　　※白磁や青磁の特徴として、高温で焼いた固い磁気であるということが挙げられる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・その他の文化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・庶民文化として、小説、雑劇、音楽に合わせてうたう詞などが盛んになった</p>
<p>　　　※庶民文化は、都市商業の繁栄を背景に発展していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・宗教では、官僚の人達によって禅宗が支持された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・金が統治する華北では、儒教、仏教、道教を上手く組み合わせた全真教という宗教が道教の革新によって起こった</p>
<p>　　　※全真教は、王重陽という人が作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・木版印刷が宋代に普及した</p>
<p>　　　※始まったのは唐代だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・活字印刷法も発明された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・羅針盤や火薬などが実用化していった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　　→活字印刷法、羅針盤、火薬などはイスラーム世界を通って、ヨーロッパに伝わっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・宋の儒学についておさえる</p>
<p>・宋の美術と工芸についておさえる</p>
<p>・宋のその他の技術についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/802">宋の時代の文化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>宋の時代の社会の様子について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/801</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/801#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 08:48:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[囲田]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[朱全忠]]></category>
		<category><![CDATA[貨幣経済]]></category>
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		<category><![CDATA[開封]]></category>
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		<description><![CDATA[宋の時代の社会の様子について考えてみます &#160; &#160; ・宋の社会について &#160; &#160; 　・宋は開封というところを都とした 　　※開封は黄河と大運河の接点にあり、開封を最初に都にしたのは、後 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/801">宋の時代の社会の様子について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>宋の時代の社会の様子について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・宋の社会について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋は開封というところを都とした</p>
<p>　　※開封は黄河と大運河の接点にあり、開封を最初に都にしたのは、後梁の朱全忠という人だった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・開封は、古くからの城壁都市を土台に、市場や繁華街が広がっていた都市だった</p>
<p>　　※唐の長安は、王の権威を内外に示すため、整然とした計画に壮大な都城が作られていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・開封は、水路を通じて中国の東西南北を商業網の中心に位置していたというメリットがある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・唐の時代の終わりころ、商業に対する規制が緩んだ</p>
<p>　　→そのため、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　・都市のなかで商業活動が積極的に行われるようになった</p>
<p>　　　・城壁の外や交通の重要な位置に、草子や鎮などと呼ばれる商業の中心地が誕生した</p>
<p>　　　</p>
<p>　　※さらに、全国から税を集めて大量に軍事支出に回すという、中央集権的な宋の財政状態は、</p>
<p>　　　物資の流通を盛んにした　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝結果的に、商品の流通がどんどん活発になっていった</p>
<p>　　　→この時に、以下のような人達が出てきた</p>
<p>　　　　・行（商人）、作（手工業者）などの同業組合が生まれてきた</p>
<p>　　　　・米、塩、茶、絹などを扱う大商人が活躍した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋の時代は、貨幣経済も発達していった</p>
<p>　　→そのため、以下のようなことが起きた</p>
<p>　　　・銅銭に加えて、金銀もそのまま使うことが出来るようになった</p>
<p>　　　・手形として使われていた交子や会子が、紙幣として使われるようになった</p>
<p>　　　　※手形は、唐の時代からあり、唐の時は飛銭と言われていた</p>
<p>　　　・貨幣経済の発展によって、お金持ちなった人達が出てきた</p>
<p>　　　　→お金持ちになった人たちは、土地を買い集めて地主になった</p>
<p>　　　　→地主は、収穫物の約半分を小作料として徴収し、佃戸に耕作させるというのが普通だった</p>
<p>　　　　　※地主と佃戸の関係は、対等な関係、主人と奴隷の関係など、様々な関係があった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋が南に渡ってから、江南の開発が進んだ</p>
<p>　　→そのため、中国経済の中心は、長安を中心とした西北から、東南の江蘇、浙江、福建などの</p>
<p>　　　地域へ移動していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・長江の下流域では、囲田などが作られ、労働力を一か所に集めるような稲作が</p>
<p>　　行なわれるようになった</p>
<p>　　※囲田・・湿地帯の土地を堤防で囲んで、干拓して作られた田のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・陶磁器、絹、茶など、特産品の集中的な生産が様々な場所で行われるようになった</p>
<p>　　→そのため、各地をつなぐような運河などが著しく発達していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・宋の社会の様子と発展についておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/801">宋の時代の社会の様子について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>宋の統治と統治に関する動きについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/800</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/800#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 08:23:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[太宗]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[官吏登用法]]></category>
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		<category><![CDATA[新法]]></category>
		<category><![CDATA[杭州]]></category>
		<category><![CDATA[科挙]]></category>
		<category><![CDATA[趙匡胤]]></category>
		<category><![CDATA[靖康の乱]]></category>

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		<description><![CDATA[宋の統治とその動きについて考えてみます &#160; &#160; ・宋の統治について &#160; &#160; 　・五代の後周の将軍だった趙匡胤という人は、９６０年に宋（北宋）という国を作った 　　→その次に出てきた [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/800">宋の統治と統治に関する動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>宋の統治とその動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・宋の統治について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・五代の後周の将軍だった趙匡胤という人は、９６０年に宋（北宋）という国を作った</p>
<p>　　→その次に出てきた太宗という人は、中国を統一した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋は、文治主義という動きをとった</p>
<p>　　※文治主義・・軍人ではなく、学識のある文人の官僚によって政治を行うこと</p>
<p>　　※なぜ、宋は文治主義をとったのか</p>
<p>　　　→当時の宋は、藩鎮勢力が大量に出てきていたり、武断政治の風潮が強かったから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋では、節度使が足りなくなるたびに、文官を当てて兵力や財力を奪っていた</p>
<p>　　→こうすることで、皇帝の親衛軍を強化していた</p>
<p>　　　＝当時は、中央集権を目指していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋では、科挙が官吏登用法の中心として扱われるようになった</p>
<p>　　※隋の時代にも科挙はあったが、宋の科挙は官僚になるための唯一の道として扱われていた</p>
<p>　　　さらに、殿試（皇帝みずからが試験官となって宮中で行う最終試験のこと）も</p>
<p>　　　宋の時代から始まった</p>
<p>　　　→こうすることで、王と官僚とのつながりを強めていたと言われている</p>
<p>　　　　＝以上の動きによって、戦乱の時に没落した貴族ではなく、</p>
<p>　　　　　科挙の官僚が皇帝のそばについて政治を行うようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※科挙について</p>
<p>　　　　・科挙は、男性であればほとんどが受験することが出来た</p>
<p>　　　　・この時の科挙は、儒学や詩文などを学ぶ必要があり、合格も非常に難しかった</p>
<p>　　　　・結局、科挙で合格できるのは、主に経済力のある新興地主層の人達だった</p>
<p>　　　　　＝貴族に代わって新しく勢力を伸ばしてきたこのような人たちを、形勢戸という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・北宋では、契丹や西夏などの北方の民族に圧迫されていたり、</p>
<p>　　集権的な軍事の体制をとっていたりした</p>
<p>　　→そのため、北宋は防衛費が増えることによる国家財政のピンチというのが</p>
<p>　　　常に大きな問題だった</p>
<p>　　　＝そこで、１１世紀後半に神宗という王が、王安石という人を宰相に使って、</p>
<p>　　　　政治の根本的な改革を狙った</p>
<p>　　　　※王安石が行なった改革を新法という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※新法について</p>
<p>　　　　・青苗、均輸、市易、募役、保甲などの様々な法を作った</p>
<p>　　　　　　→・青苗・・植え付けの時に貧しい農民へ金銭や穀物などを低金利で貸し付けること</p>
<p>　　　　　　　・均輸・・物資の流通を円滑にすることと、物価安定についての策のこと</p>
<p>　　　　　　　・市易・・中小の商人への低金利の貸し付けのこと</p>
<p>　　　　　　　・募役・・力役の代わりに免疫銭を出させて希望者を雇用すること</p>
<p>　　　　　　　・保甲・・民兵の訓練や治安維持のための農村組織のこと</p>
<p>　　　　・王安石は、新法を通して以下の２つを考えていた</p>
<p>　　　　　　→・農民や中小商工業者の生活の安定と生産の増加を目指した</p>
<p>　　　　　　　・経費節減と歳入の増加によって、国家財政の安定と軍事力の強化を狙った</p>
<p>　　　　　　　　＝王安石の新法は、富国強兵の策だった</p>
<p>　　　　・新法は、地主や大商人の利益を低くして、政府の収入を増やすことを目指す改革だった　</p>
<p>　　　　　→そのため、反発する官僚も多かった</p>
<p>　　　　　　＝結果的に、王安石の引退後に新法党と旧法党との対立が長く続くことになった</p>
<p>　　　　　　　※この対立は、宋の国力を弱めることになった</p>
<p>　　　　　　　※旧法党・・司馬光を中心とした王安石の新法に反対する一派のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１２世紀の初めに金は、遼を滅ぼし、華北を占領した</p>
<p>　　→そして、金は１１２６～２７年に、宋の都である開封を陥落させ、</p>
<p>　　　上皇の徽宗と皇帝の欽宗という人をとらえた</p>
<p>　　　＝この出来事を、靖康の乱という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→靖康の乱の後、皇帝の弟の高宗という人が江南に逃れて王の位についた</p>
<p>　　　＝高宗は、南宋という国を作り、臨安（現在の杭州）を首都にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※この時、政治の話し合いの中心は、金に対する政策だった</p>
<p>　　　　→政策については、秦檜という人を中心にした和平派と、</p>
<p>　　　　　岳飛という人を中心とした主戦派で対立した</p>
<p>　　　　　＝この対立は、和平派が勝利したため、金との間に和議を結んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　→この結果、淮河というところを境にして、北は金、南は南宋、</p>
<p>　　　　　というように２つに分かれた状態が続いた</p>
<p>　　　　→そして、宋は金に対して臣下の礼を取り、毎年銀や絹を金に送ることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・宋の動きについておさえる</p>
<p>・宋の後の動きについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p>
</p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/800">宋の統治と統治に関する動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>北方の勢力の動きについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/799</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/799#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 08:15:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[タングート]]></category>
		<category><![CDATA[二重統治体制]]></category>
		<category><![CDATA[北方民族]]></category>
		<category><![CDATA[太祖]]></category>
		<category><![CDATA[契丹]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[州県制]]></category>
		<category><![CDATA[渤海]]></category>
		<category><![CDATA[澶淵の盟]]></category>
		<category><![CDATA[燕雲十六州]]></category>

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		<description><![CDATA[北方の勢力の動きについて考えてみます &#160; &#160; ・北方の勢力の動きについて &#160; &#160; 　※なぜ北方の勢力に注目する必要があるのか 　　→唐が滅亡した後の東アジアに大きく関わっていったの [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/799">北方の勢力の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>北方の勢力の動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・北方の勢力の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※なぜ北方の勢力に注目する必要があるのか</p>
<p>　　→唐が滅亡した後の東アジアに大きく関わっていったのは、北方民族の勢力だったから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→そして、遼河の上流で契丹（キタイ）という人達が半農半牧という生活を送っていた</p>
<p>　　　＝契丹は、ウイグルが衰退すると同時に勢力を強めていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１０世紀の初めに、東モンゴルを中心に耶律阿保機（太祖）という人が</p>
<p>　　契丹帝国という国家を作った</p>
<p>　　→契丹の東側は、渤海を倒した　</p>
<p>　　→契丹の西側は、モンゴル高原を支配した</p>
<p>　　→五代の後晋の建国をサポートした</p>
<p>　　　＝このサポートによって、燕雲十六州（河北・山西の北部）を領土に加えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※契丹は、宋が出来てからも華北に侵入していって、宋に圧力をかけていた</p>
<p>　　　→そのため、１１世紀の初めには、宋が毎年多くの銀や絹を契丹に送るという</p>
<p>　　　　条件のもと和議を結んだ</p>
<p>　　　　＝この和議を、澶淵の盟という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・契丹の特徴として、以下のようなことが挙げられる</p>
<p>　　→・契丹は、北方民族として本拠地を維持しつつ、中国国内を支配していった最初の国家だった</p>
<p>　　　・契丹の領内には、狩猟、農耕、遊牧など、様々な仕事を行う様々な民族がいた</p>
<p>　　　・官制は、部族制を用いた北面官、州県制を用いた南面官というような区別をしていた</p>
<p>　　　　→このようにして、性格が違う社会をまとめていこうとしていた</p>
<p>　　　　　＝このような統治の体制を、二重統治体制という　　</p>
<p>　　　　　　※州県制・・地域の枠組みを、州と県にしようとした制度のこと</p>
<p>　　　・国名は、民族の名前である契丹を使う時期と、中国風の遼と名乗る時期があった</p>
<p>　　　・契丹は、最初はウイグル文化の影響を受けていた</p>
<p>　　　　→その後、中国の文化を吸収することで、仏教を受け入れていった</p>
<p>　　　・太祖などは、契丹文字というものを作った</p>
<p>　　　　※契丹文字は、ウイグル文字と漢字との両方の影響を受けていると言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋の西北の辺境である陝西・甘粛地方というところには、チベット系の</p>
<p>　　タングートという人達がいた</p>
<p>　　→タングートは、近くにいた吐蕃やウイグルを倒した</p>
<p>　　　＝そのため、独立して国号を大夏とした</p>
<p>　　　　※一般的には、西夏と言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→西夏には、以下のような特徴がある</p>
<p>　　　・中国と西方を結ぶ重要な場所だった</p>
<p>　　　　※そのため、たびたび宋に侵入していた</p>
<p>　　　・仏教が盛んだった</p>
<p>　　　・漢字の構造を参考にした西夏文字というものが作られた</p>
<p>　　　　※西夏文字では、多くの仏典が翻訳された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・契丹の勢力が及んでいた範囲の東部には、ツングース系の女真（女直）と</p>
<p>　　呼ばれる人たちがいた</p>
<p>　　※女真は、半猟半農の生活を行い、契丹に支配されていた</p>
<p>　　※女真は、女真文字という独自のものを作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１２世紀の初めに、完顔阿骨打（太祖）という人が独立して、金という国を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋は、金と手を組んで、１１２５年に契丹を倒した</p>
<p>　　→この時、遼の皇族だった耶律大石という人は中央アジアに逃げて、</p>
<p>　　　西遼という国家を作った</p>
<p>　　　＝このような形にすることで、耶律大石が契丹の文化を西側で守っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・遼が滅亡した後、宋と金が領土をめぐって争うようになった</p>
<p>　　→その時、金は華北に侵入して、宋の都である開封というところを占領した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・金は、部族制を中心とした猛安、謀克という今までの軍事や社会組織を維持してきた</p>
<p>　　※一方で、華北では宋の州県制が受け継がれていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・契丹の動きをおさえる</p>
<p>・契丹の周辺の動きとその様子をおさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/799">北方の勢力の動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>東アジアの勢力の変化について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/798</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/798#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 08:07:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[キルギス]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[五代]]></category>
		<category><![CDATA[唐]]></category>
		<category><![CDATA[契丹]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[市舶司]]></category>
		<category><![CDATA[朝貢関係]]></category>
		<category><![CDATA[東アジア]]></category>
		<category><![CDATA[高麗]]></category>

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		<description><![CDATA[東アジアの勢力の変化について考えてみます &#160; &#160; ・東アジアの勢力の変化について &#160; &#160; 　・唐の終わりから五代の時代の特徴として、東アジアの様々な政権が 　　一斉に交替した時期だ [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/798">東アジアの勢力の変化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>東アジアの勢力の変化について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・東アジアの勢力の変化について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・唐の終わりから五代の時代の特徴として、東アジアの様々な政権が</p>
<p>　　一斉に交替した時期だったと捉えられる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・９世紀の半ばにウイグルがキルギスに倒された後、トルコ系民族の西方への移動に伴って、</p>
<p>　　東アジアの北方世界の中心はモンゴル高原の東南部を中心としたモンゴル系の</p>
<p>　　契丹というところに移った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１０世紀の前半に、唐の滅亡を始めとして、大きく５つの出来事が起きた</p>
<p>　　→・渤海が契丹に降伏した</p>
<p>　　　・朝鮮で、新羅に代わって、王建という人が開城というところを都にして、</p>
<p>　　　　高麗という国を作った</p>
<p>　　　・雲南では、南詔から大理に政権が交替した</p>
<p>　　　・千年以上にわたって中国の支配を受けてきたベトナムが１０世紀の後半に</p>
<p>　　　　独立国家を作った</p>
<p>　　　・１１世紀の初めに、李氏が大越国を作って、支配を固めていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝総合して考えると、唐の終了以降の時期は、以下のような特徴があると言える</p>
<p>　　　→・唐を中心として形作られていた東アジア文化圏の統合が緩んだ</p>
<p>　　　　・それぞれの地域が独自の特色ある文化を形成していった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・高麗では、国家の保護によって、仏教が盛んになっていった</p>
<p>　　→そのため、仏教経典を集めて作られた「大蔵経」というのは、</p>
<p>　　　日本の有力者にも熱心に求められた</p>
<p>　　　※この時に、独自の雰囲気を持つ高麗青磁というのも作られた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・唐から宋にいたるまでの動乱の時代に、日本では平安朝が続いていた</p>
<p>　　→日本では、以下のようなことが起きていた</p>
<p>　　　・９世紀末に遣唐使を廃止した</p>
<p>　　　・仮名文字や大和絵に代表されるような、日本独特の国風文化が栄えた</p>
<p>　　　・律令体制が崩れていった</p>
<p>　　　・武士の勢力が強まっていった</p>
<p>　　　・１２世紀の終わりに鎌倉幕府が誕生する</p>
<p>　　　　※高麗でも１２世紀の終わりころに、武臣（軍人）が政治の実権を握っていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・周辺の国々がそれぞれ独自の文化を誕生させていくにつれて、</p>
<p>　　中国の文化的な影響力が弱くなっていった</p>
<p>　　→この動きは、中国文化の衰退ではなく、中国を新しく統一した宋の時代に</p>
<p>　　　唐の文化とは違う、新しい中国独特の文化が生まれていく土台となった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・この時期は、中国を中心とした朝貢関係が弱くなっていった</p>
<p>　　→一方で、東アジアの地域間での民間の交易は活発になっていった</p>
<p>　　　※この時に、銅銭や陶磁器などの貿易が行なわれていた</p>
<p>　　　　＝その結果、広州、泉州、明州（寧波）などの港が繁栄した</p>
<p>　　　　　※これらの港には、市舶司というのが置かれ、海上の貿易を管理していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・東アジアでのそれぞれの地域の変化と流れについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/798">東アジアの勢力の変化について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>中国の分裂の時代について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/792</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/792#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 06:20:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[三国時代]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[五胡十六国]]></category>
		<category><![CDATA[八王の乱]]></category>
		<category><![CDATA[北朝]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[晋]]></category>
		<category><![CDATA[曹丕]]></category>
		<category><![CDATA[魏]]></category>
		<category><![CDATA[黄巾の乱]]></category>

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		<description><![CDATA[中国の分裂の時代について考えてみます &#160; &#160; ・分裂の時代について &#160; &#160; 　・北方民族が力をのばしはじめたころ、中国では黄巾の乱によって、 　　各地に軍事集団が現れ、戦いを繰り返 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/792">中国の分裂の時代について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>中国の分裂の時代について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・分裂の時代について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・北方民族が力をのばしはじめたころ、中国では黄巾の乱によって、</p>
<p>　　各地に軍事集団が現れ、戦いを繰り返していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・２２０年に曹操という人の子どもの曹丕という人が後漢の皇帝から位を譲ってもらう</p>
<p>　　ということが起きた</p>
<p>　　→そこで、曹丕は華北で魏という国を誕生させた</p>
<p>　　→すると、長江下流域で孫権という人が呉という国を、四川で劉備という人が</p>
<p>　　　蜀という国を作った</p>
<p>　　　※結果的に、魏、蜀、呉の３国が中国を３つに分ける形となった</p>
<p>　　　　＝この時代を、三国時代という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・３国の中では魏が最も優勢だった</p>
<p>　　→そのため、魏は蜀を滅ぼした</p>
<p>　　　※その後、魏の将軍だった司馬炎（武帝）という人が国を奪って、</p>
<p>　　　　晋（西晋）という国を作った</p>
<p>　　　　＝その後、晋は呉を倒して、中国を統一した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・しかし、中国を統一してすぐに、帝位をめぐる一族の争いが起きた</p>
<p>　　＝この争いを、八王の乱という</p>
<p>　　　→八王の乱によって、晋の支配が揺らいでしまった</p>
<p>　　　　※この内乱のなかで、兵力として活躍した遊牧諸民族（「五胡」と呼ばれる）が</p>
<p>　　　　　勢力をのばして、各地で争いを起こしてきた</p>
<p>　　　　※五胡・・一般的に、匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の５つを指すと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→匈奴は、山西で挙兵し、晋の首都だった洛陽を倒した</p>
<p>　　　　＝しかし、その後、晋の一族の司馬睿という人が江南の建康（現在の南京）で即位し、</p>
<p>　　　　　晋を復活させた</p>
<p>　　　　　※この時の晋を、東晋という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→さらにその後、華北では主に遊牧諸民族によってたてられた多くの政権が</p>
<p>　　　　盛り上がったり滅んだりした</p>
<p>　　　　＝この時のことを、五胡十六国という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　→結果的に５世紀前半に、鮮卑の拓跋氏という人達が作った北魏の太武帝という人が</p>
<p>　　　　華北を統一した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・北魏の孝文帝という人は、均田制や三長制を使って、農耕社会を安定させようとした</p>
<p>　　※三長制・・５家を隣、５隣を里、５里を党として、それぞれに長を置く村落制度のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→さらに、平城から洛陽に都を移し、鮮卑の服装や言語を禁止にするなど、</p>
<p>　　　積極的な漢化政策を行った</p>
<p>　　　※しかし、これらの政策に反発する軍人の反乱が起きるようになった</p>
<p>　　　　＝そのため、北魏は東西に分裂してしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→さらに、東魏は北斉に、西魏は北周に倒された</p>
<p>　　　※おまけに、北斉は北周に併合された</p>
<p>　　　　＝このように、北魏以後の５王朝を北朝という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・一方で、江南では東晋の政権のもとに、華北への反攻で戦果をあげた武将の劉裕という人が</p>
<p>　　権力を握った</p>
<p>　　→劉裕は東晋を倒して、宋という国を作った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・その後、江南では宋、斉、梁、陳の４つの王朝が短期間で誕生したり、滅んだりした</p>
<p>　　→これらの王朝をまとめて、南朝という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　＝南朝と北朝の対立は、約１世紀半続いた</p>
<p>　　　※三国時代以後の３世紀半あまりの分裂時代を、魏晋南北朝という</p>
<p>　　　※また、建康（建業）に都を置いた６つの王朝（呉、東晋、南朝の４朝）を合わせて</p>
<p>　　　　六朝ということもある</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・中国の分裂の時代の様子とその流れについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/792">中国の分裂の時代について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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